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刺青文化

 山本芳美という文化人類学者が、
イレズミ文化の衰退とともに、
銭湯や公営プールで、「イレズミお断り」とか、
「Tシャツ着用」とか、そういう文言が増えてきたことを
ふまえて「私たちは社会を漂白しすぎた」と指摘している。
(「イレズミと日本人」)

 山本氏は、職人のイレズミに関する
「社会的記憶」が失われていった、と語るが、
たしかに、それもそうだろうが、
ほんらい、イレズミも含めた身体加工というのは、
ひとつのアイデンティティーを表出させる
身体運用である、という説も見逃せない。


 どこぞの国のある種族は、
顔中、身体中に彫り物をしたり、なにかを塗ったり、
それは、みずからの自我構造の確認に
なっているというのだ。

 
 だから、女子のピアス、いま、男のひともしているが、
あれなどは、美を誇示するのではなく、
みずからの存在理由を示す、ひとつの方法とみることもできる。


 ただのおしゃれではないのである。

 イレズミはその最たるもので、
おしゃれでタトゥーをするひともいるが、
背中の、登り龍など、おしゃれを通り越していて、
レゾンデートルの極北と言えるだろう。

 
 だから、身体加工しなくなってきた文化は、
自我の喪失を招いているのではないか、
そう、懸念をいだく評論家もいる。


 「自我の喪失」という術語が
人口にカイシャしてずいぶんと日が経つが、
もし、その現象を受け容れ、かつ、高度文明が、
ニンゲンの本能的なものを奪い取るとしたら、
ひとは、どんどん、ひとから離れてゆくのかもしれない。


 いま、若者で、恋人関係にある数が
激減しているという。

 恋ができないのである。


 これって自我構造と無縁ではないとおもうし、
高度文明が、あまりに個人に快適を与えたので、
異性がいなくても、べつに気にならない
空間をつくりあげているのかもしれない。


 そういう時代において、
たとえば、「セクハラ」。

 塾では、女子高生を、下の名前で呼んではいけない。

 セクハラになるらしい。

 「高田美和」と、フルネームもいけない。
セクハラになるという。


 だから、とうぜん、男子もフルネームはNGである。

 「板垣退助くん」とか「土岐善麿くん」とか
呼ぶことができないのだ。


 女子には「高田さん」、男子には「板垣くん」と
性差をはっきりさせて「さん」「くん」で呼べと
そう指導される。

 セクハラはだめだけれど、性差はしなくてはならない。

わたしは、これは「漂白しすぎのパラドクス」じゃないかと、
つくづくおもうが、それがまかりとおっている。

 痛いおもいをして世に生まれでてきた子どもに、
親は、この子の、ひかり輝くであろう未来を見据え、
もっとも素敵な、もっとも愛らしい、
全世界のひとから
うつくしく呼ばれるために、
その子に名を与えるのである。


 しかし、その名を呼ぶとセクハラになる。

むかしは、もっと鷹揚だったようにおもう。

 「セクハラ、セクハラ」とか言っているから、
出生率が、1.4とかになってんじゃん。


 このままでゆくと、西暦2300年には、
社会学的計算では、日本人は、ひとりかふたりに
なってしまうのだ。


 水清ければ魚棲まず、とはよく言ったもので、
あまりの漂白的感覚は、
すでに、人間の温かみをうばい、
他人との接触をきらい、
個人主義的な、
体温のないニンゲンをつくってしまうのではないか。

そういうひとが、CC化、クレージークレーマーになったり、
モンスターペアレンツになったり、
するのかもしれない。

 この漂白化を従属矛盾ととらえれば、
この根本に、主要矛盾があるはずである。
(これは毛沢東の言説「矛盾論」より)

 いったい、どうしてこんなことになったのか。

この主要矛盾はどこにあるのか。

 おそらく、高度資本主義や高度文明の終焉が、
それにあたるのだろう。

 世の中終わるのかもしれない。

 と、いいながら、とにかく、
わたしは、イレズミは苦手である。