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店舗案内

マツモトコーヒーに行く

 時間が止まっているという感覚はみょうに
ひとを惹きつける。
 
 マツモトコーヒー店。横浜大通公園、真金町の商店街は、
中国系・韓国系の店がずらりとならぶ、位相空間のメッカだ。

 ナムル・キムチ・魚屋にはエビやクロダイ、
東上野を彷彿するアウラがこの商店街には漂っている。

 その、商店街の中ほどを左に折れてゆく、
中国では「胡同(フートン)」というのだろうそのひどくほそい道の
またちょうど真ん中あたりにマツモトコーヒーはある。

 妻が
「え。ここ?」
と言う。たぶん、人生ではじめて入るコーヒー店だろう。
彼女はただ、トイレに行きたいために

「どこか」へ 入りたかったのだが、

わたしが、なにも言わずに

ここに連れてきたのだ。

 そもそも、真金町に来た目的は、
マツモトコーヒーではなく、真金町交差点のところにある、
ジャンクな天丼を食べることだった。

 700円で、うっそ~っていうくらいのボリューム。
エビ・アナゴ・キス・茄子・どんこの椎茸・ピーマン・かぼちゃ
これが、これでもかという存在感でどっさりどんぶりに乗っている。

で、食いすぎでトイレを探すというお粗末さなのだが、
どうせ、ここまで来たらマツモトコーヒー、そうおもったのだ。

 店に入れば、レトロ感まるだし、
低い二人掛けのビニールシート。茶色というのかエンジ色というのか。

 それが二列に並び、狭い店内は十数人で満席となる。
が、わたしたちが入ったときは、店主とひげ面の若者ひとり、
その二人だけだった。

妻が「さっそくですみませんが、トイレありますか」って訊いたら、
「どーぞ」って案内されたのが、ガスレンジのあるカウンターの奥。

つまり、仕事場の奥にトイレがある。

 わたしは、コーヒーを注文し、まだ戻ってこない妻にはミルクコーヒーを
注文した。どちらも300円。(この値段、スタバも見習え)

 トイレから戻ってきた妻に、
「な。なかなかない店だろ?」
って言うと、「うーん」って唸っている。

 この店は、昭和一桁のままの空気をまだ含んでいる。
ここに慣れるには、それなりの覚悟と時間がいりそうだ。

「ここ見てみな」
と、わたしが壁に貼ってある雑誌の切り抜きを見せた。

マツモトコーヒーの店前と店内が載っている。
「え。なんで?」

「私立探偵濱マイクって知ってる?」
「え。わかんない」
「ほら、永瀬なんとかが主演した」
「あ。小泉今日子のもと旦那?」
「ああ、そうかな、あの舞台がここなんだよ」

「え。そーなの」

と、となりの席でタバコをくゆらせてテレビを見ていた
店主がこちらを振り向き「映画、ご覧になりましたか」と
訊いてきた。

「はい、DVDで見ました」
「そうでしたか、いやぁ、永瀬さんのデビュー作ですからね、
濱マイクは、でも、腰の低いいい方でしたよ」

「へぇ、そうなんですか、ほら、そのとき
濱マイクが飲んでいたのがミルクコーヒーだよ」
と、わたしは妻を見ながらそう言った。

「あ。だから」

「あそこの冷蔵庫のところに、松田さんが立っていたんです」
と、店主は続けた。

「あ。松田美由紀さん」

「そう。きれいな方でしたよ、背が高くて」

「きれいですか、そんなには見えないけれど」
「あら、きれいなひとよ」と妻が横から。

「色白でね。わたしは、すぐ横で見られて幸せでした」
店主の思い出話はそれからエンエンつづけられた。

「キョンキョンも二度ほど来ました。でも、スタッフ、
そうだな、三十人くらいいましたけれども、
みんな、小泉さんって呼ぶんですよ。で、小泉さん、
到着ですって言うと、現場がキリッて引き締まるんです。
きれいな方ですよ。それはほかのひととはゼンゼン違って」

「小さい方なんですよね」

「はい。顔なんかこんなに小さくてね。休憩時間となると、
ここで、タバコを何本も吸うんです。永瀬さんといっしょに。
小泉さん、なんのタバコを吸っているのか見てみると、
セブンスターなんですよ。あんな辛いタバコをねぇ」


「神奈川のヤンキーだったんでしょ、
だから、タバコだってそのときのじゃないですか」
と、また、妻が口をはさんだ。

「すっぴんで来たときだって、きれいだったですよ。
で、映画のロケがおわって仲良く帰られたとおもった三日後に
離婚ですよ。驚きましたね」


 マツモトコーヒーの店主の話は
このあと、全国からこの店を訪れた客の数とか、
近所で、あぶないデカのロケがあった話とか、 語りつづけた。


 それは、ノスタルジアの含まれる
なんだかとてもあたたかな空間であった。
 そして、
時間が止まっているという感覚が、
みょうにひとを惹きつけるものだ、
ということを実感していたのである。      (2012.11.14)