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保育園に反対しよう

 われわれの視線は「面」から「線」に移行してきた。

「面」というのは、ひろく社会を見据えて、
そのなかでの「個人」という立ち位置である。

「線」というのは、感情という旗頭に
みずからの権利を追求する姿勢だ。


日本国憲法は、「義務」よりも「権利」の比重が大きいと、
そう言ったのは石原慎太郎であるが、
それを鵜呑みにするしないはべつとして、
もし、憲法がそうなっていたら、ひとは権利を主張するものの、
義務を果たさない国民になってしまう。

 いわゆるモラルハザードが体現される場(アゴラ)に
日本がなってしまうということだ。


 そもそも、学歴社会の終焉とかいうが、
いま、教わっている先生がどこの大学の出身か、
ということを気にしている生徒や親がもしいるなら、
学歴社会は歴然と存在している。


 そして、教師よりも保護者のほうが学歴が高ければ、
とうぜん、上から目線ではないけれども、
言いたいことは言うようになる。

 その言いたいことは「面」ではない、「線」なのだ。


 「なぜうちの子だけに怒るんですか」
みたいな、馬鹿げたクレームをよせる。

「指導力がないんじゃないですか」
とか。


 すべて、社会を取り込んで、そこからの発言ではない。


 また、吉祥寺では、
私立保育園が住人20人の反対で開園を断念させられた。

 わたしの住んでいる街のとなりでも、
いま、反対の黄色い垂れ幕が壁に貼られている。

 「面」の発想というのは、じぶんたちは共同体のなかの一員である、
というごく当たり前の考量である。

 共同体のなかの一員という考えには、
「我慢」という負の重荷がつきまとう。

共同体感覚を身につければ、 
じぶんだけがよければそれでいい、
という安楽な生き方ができなくなる。

 しかし、そういう我慢、義務を国民が背負って、
国というものを支えてきたはずである。


 諸君の国が諸君のためになにをなし得るかを問いたもうな。
 諸君が諸君の国になにをなし得るかを問いたまえ。


 J・Fケネディの演説だ。


 ケネディは国民に共同体感覚、コミュニティの民度を
高めなさいと、そう説いた。

 いま、安倍さんが、そんなこと言うだろうか。
国民の安全とか、自衛隊とか、なんか
ほんとうの根本をつかんでいないような気がするけれど。


 「線」の思想やものの見方が横行して、
そしてまかりとおる社会。

 これが、宮台真司のいう「感情の劣化」というのだろう。

 じぶんの言うことが、すんなりとおる世の中は、
けっきょく、それでじぶんの首をゆっくりと締め付けてゆくはずだ。


 感情の劣化は、刹那的な有能感をひとにもたらせながら、
じわじわと、民度を下げて、最終的に滅亡への道をたどるのだろう。

 これから、われわれに与えられた、
ひどく至難な道ではあるが、そこにある宿題は、
クレームでもなく、○○反対でもなく、主張でもない。

我慢である。