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記憶

 

 ピーター・ティールというアメリカの起業家は、

もとトランプ大統領の政策顧問だったり、

PayPalの創案者だったりと、

すこぶるやり手の人物がいますが、

かれは、制度ではひとは幸せにならない、という思想の持ち主です。

 

まるで主意主義的 ( 制度ではひとは幸せにならないという考え ) な考量なのですが、

そのピーター・ティールが現在、ポリネシアに養生国家を建設しています。

そこに幸せの王国をつくろうということです。

その趣旨は、制度などの再配分ではなく、

薬とゲームをしていれば、幸せになるという思想です。

 

きみが不幸なのは、飲んでいる薬がわるいんだよ、

やっているゲームがちがうんだよ、ということです。

 

これはけっきょく主知主義 (つまり彼の制度のなか) です。

かれの発想は人間はすでに劣化しているという諦念からのものだとおもいますけれども。

 たしかに、人は脳内コントールで絶頂感を味わうことはできますが、

それがほんとうの幸せなのでしょうか。

つまり、これは、表題に挙げたように「記憶」の欠如した幸福論なのです。

長い間の修行や訓練で得た、

たとえば、ニルヴァーナのような経験から感じる幸福感、

絶頂感と、薬とゲームの表層的なものとはたしておんなじなのでしょうか。

 

 いま、若者は、すぐ携帯でググってしらべます。

ああ、ありますね、なんてさっさと解答をみつけます。

ええ、なんだろうなぁ、とか、どうだったけなぁとか、

気をもんで家まで考えつづけ、百科事典を棚からおろして調べ、

ああ、そういうことか、という時代ではなさそうです。

こういう調べるという行為にも「記憶」からはほど遠いものを感じます。

このような時間の厚みを「時熟」と呼んだのはハイデガーです。

おそらく「時熟」と「記憶」と言語的布置の関係にあるのではないかとおもいます。

 

 敗戦をむかえて日本は、

アメリカの手によって日本国憲法を創案しますが、

あれも記憶のない憲法です。

戦後民主主義という制度は、ひとつの芝居の書割のようなものでいわば虚構です。

つまり、前史をとおりぬけない、歴史的必然性のない制度です。

オプションとしてアメリカから手渡されたカードなので、

ようするに「記憶」のない仕組みなのです。

イギリスのように憲法典のない国は、

ながい歴史をとおりぬけて民主主義をつくりあげていったのですから、

デモクラシーは人びとの心の根に植えられて骨肉化しているとおもいますが、

ことわれわれは、ふーん、そういう考えなんですね、

と数式をたたみこまれて暗記するというのと類比的な脆弱な制度なのです。

 

「記憶」の有無、という発想はいたるところに見受けられます。

プロテインで作り上げた筋肉もしかり。

何年も鍛錬して、バーベルをもちあげたり、

走りこんだりした筋肉と、薬でつくりあげたものと、はたしておんなじでしょうか。

 

保守主義という、家族をまもり、文化をまもり、という政策は八十年代で終焉をむかえます。

台頭したのが新自由主義、いわゆるネオリベラリズムという政策です。

レーガン大統領の時代ですね。ちなみに新自由主義、

ネオリベラリズムとは、政府の介入をできるだけおさえ、

規制撤廃による自由競争の促進をはかり、

大幅な減税をしながらも政府の支出を削減して

インフレーションを下げてゆこうとした政策です。

ようするに保守主義は記憶の政策なのですが、

ネオリベには記憶がともなっていません。机上の空論からの出発だったわけです。

 泉下の安倍さんが、「美しい国、ニッポン」などの、

このポピリスティックなものいいは、保守主義の言説にも見えますが、

じつは、ネオリベが壊した、保守主義的なもの、よきものの崩壊を、あえて語るという、いわゆる「マッチ・ポンプ」なものだったと、識者は語っています。記憶のないところに深みがない、ということなのでしょう。

 

 小説や短歌・俳句とか、詩もふくめてですが、

みずからの身を切り裂くような作品でないと

深みや味わいがないと語ったのは、中野重治というひとですが、

中野は、そういう姿勢を「素朴」と言いましたが、

けっきょく「素朴」の含意は「記憶」をもって

創作するということになるのでしょう。

 

 

 わたしの短歌の友人のひとりは

「わたしは、命がけで短歌つくっているのよ」と語りますが、

「記憶」を絞り出して、

ようやくそこから一文字を生み出しているのかとおもうと、

わたしの作歌などはずかしくなるかぎりです。