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手段のシフト(「けっきょく」の話)

 わたしがまだ高校の教員だったころ、

そのころはのんきな職場で、

空き時間になれば、近所の喫茶店でお茶を、

なんてことがよくありました。が、上司がかわり、

しだいに上司も「小物」になってゆくせいでしょうか、

こそこそ職場を離れることを「よし」としなかったのか、

「外出届」なるものを発案しました。よけいなことです。

その理由は、外線がきても担当教員が留守なので困る、

せめて居場所だけでも把握したいということでした。

わたしは、その上司に

「この書類をつくれば、かならず、外出の許可、不許可ということになるので

やめてもらいたい」ともうしました。

と、その上司は「そんなことはない。

これは、あくまで場所の確認のためだ」と断言されていました。

 

 

 で、それから、数年が経ちますと、

許可書を提出すれば「いや、許可できない」と言われるようになり、

けっきょく、外出届は、外出許可書になってしまいました。

 これを手段の目的化といいます。

 

「外出する場所の特定」という目的が、

けっきょく、「外出の許可」を査定する書類に目的がシフトしてしまったのです。

 

 われわれは、こういう手段の目的化をいたるところで、目撃しました。

 

 日本というマクロな視点でいえば、

戦前のアジア主義という考量は、

いち早く近代化した日本がアジア諸国を列強からまもるため、

まず、アジアを統一して、そのあとにアジア諸国を

独立されるという崇高な思想でした。

アジアの独立という目的のためのアジア統一です。

が、けっきょく、悲劇的にもアジア統一が目的になってゆくという歴史をわれわれは経験しています。

 

 キリスト教にとっても、キリスト教に入信することは、

じぶんの幸福への一本道であることの確信にほかならないのですが、

そのキリスト教がしだいに凋落してゆくことを信者は実感します。

その理由のひとつが、だれをも受け入れるというキリスト教の

もっとも尊崇な教義だったのですが、

そのだれでものだれが、低層階級のつまり金持ちなどに

意味のない恨みをもったニンゲンたちであったばあい、

その中身は内部からくずれはじめるのです。

低層のひとたちの恨みをルサンチマンといいますが、

このルサンチマンの叫びが高みから引きずり下ろすのに

じゅうぶんなエネルギーがありました。

 

 

 じぶんのクラスにとんでもない輩、

いわゆる不良やどうしようもないバカがはいってきたら、

クラスはガタガタになるではないですか。

それとおんなじ図式がキリスト教内部におこりはじめたのです。

 

 

 と、敬虔なる信者は、

どうしてもキリスト教をまもろうと躍起になるわけです。

わたしたちの宗教と教えを守ろうとする、

つまるところ、それがかれらの目的になってしまったのです。

で、ふと、気づくのですね。「あれ、わたしたちの幸せはどこにいったのだろう」と。

 

 日記をつけることは、自己実現のための一ファクターだったのですが、

つまりは日記をつけることが目的になってゆく。

 

 博物館には展示物の展示という目的があったのに、

けっきょくせっせと展示物を収集するという目的に堕してしまう。

 

 こういう日常をわれわれは経験しているのです。

 

 十九世紀から二十世紀前半にかけて、

資本主義においてシステム的なものが導入され、

進歩と発展を遂げてゆくのですが、まだ、システムが整備されていないころは、

仕事は、社会貢献だし、社会参加する自己実現のひとつだったのです。

ヘーゲルなどの時代は、社会に参加する「外化」だとして仕事を称揚しました。

が、けっきょく、システムが増大し、ほんらいは、システムを自己実現の道具、

手段として使用していたものが、

その増大により、ニンゲンがシステムに追いついてゆかなくなり、

システムを使いこなそうと必死になってゆくのです。

そうなると、われわれはシステムを利用するのではなく、

システムの奴隷になって、そのシステムに隷属してゆくようになっているのが、

現在です。ですから、そこに仕事にたいする疎外感がうまれるようになってきています。

仕事は「外化」から「疎外」に移行してゆく歴史も、

この手段の目的化の一図式にすぎないのです。