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コオロギが鳴く

この世の終焉。

 

 すでに、数十年前に、ホーキング博士が、

「これだけ進んだ文明の星は100年もたない」と

断言されて、すでに60年。

 

 

 もう、そこにまで「終わり」が来ているのだろうか。

 

 わからない。

 

 だれにも、わからない。それは、ひとの命と類比的で、

死期を察知出来る人はそうはいないとおもうのだ。

 

 前にも書いたことだが、リップクリーム。

 

 あんなものを塗らないとくちびるがかさかさになる。

 

 ネアンデルタール人でリップクリームをつかったものは

たぶんいないだろう。

 

 

 マスク。

 

 北京原人でマスクをするという風習はなかったろう。

 

 

 日傘。

 

  藤原定家が、日傘で歩く、など『明月記』にあるわけない。

 

 

 リップクリームにせよ、マスクにせよ、日傘にせよ、

大自然に対して、私たちは、生身の体では対応できなくなっているのだ。

 

 

 これは、人類の滅亡の入口なのかもしれない。おわりのはじまり。

 

 

 で、そういうことと似たようなことを、あの内田樹先生も

おっしゃっているそうだ。

 

 

 内田先生は、もうこの世の中は、とりかえしのつかない状態にある、

そう言及されている。

 

 中沢新一先生は、にんげんが道具をつかったときから、にんげんは、

世界の外側にいると説いた。

 

 スマートフォン、あれなど、世界の外側のまた外側の

けっして「ありえない世界」と交渉する装置である。

いわゆる拡張現実。

 

 手触りのある現実ではなく、拡張現実のなかに生きてゆく。

 

 馬鹿学校につとめたていたとき、

馬鹿は、ほとんど休み時間にスマホをいじっていた。

それが、さもあたりまえのように。得意になって。

 

 オリンピックの演技を見ているとき、

演技者、選手のひとりとて、

試合中に、携帯電話などもっていない。

演技中に使用しているひとなど、いるはずもないが、

あの姿に、にんげんのプリミティブさが

投影されているのではないか。

 

 ようするに、スポーツをしている瞬間にしか、

にんげんの根本が残っていないのかもしれない。

 

 へいきで虫がきらいだというひとがいる。

若い子達のことごとく虫が嫌いだ。

 

 これが人類という動物、ホモサピエンスの終焉の左証なのかもしれない。

 

 世界の外側にいる、ということなのだから。

だから世界の内側にいるものと没交渉なのである。

 

 現実世界のなかにいるより、RPGの世界のほうがおもしろいなら、

仮想現実のなかに身をゆだねるだろう。

 それがにんげんの世界を終わりにさせているのかもしれないのだが。

 

 では、どうすればいいのか。

 

 ほんらいの人間性をとりもどすにはどうするのか。

 

その道はひとつである。

 

 不便になればいい。

 

 文明は、人類に便利さをもとめて進歩してきた。

が、その文明が、ニンゲン本来の能力を劣化させてしまった。

 

 スマホが普及してから、ともだちの電話番号を暗記しているひとが

何人いるだろうか。まだ、ダイヤル式の電話だったら、

そらで友人の家に電話できたものだが、いまは、ひょっとすると

家の電話もかけられないかもしれない。

 

 これは、便利さの極度の追求によって、

ニンゲンの能力を激減させたことの、例証である。

 

 防衛本能も種族保存の本能もすでに劣化した。

 

 だから、その本能をとりもどすには不便しかない。

 

つまり、まず、われわれはスマートフォンを捨てることだ。

 

 そこから始まらなければ、未来はないとおもうのだ。

 

世の中が終わる。それにはどうしたらいいのか。

 

 この喫緊の事況を打破するには、よほどのリーダーシップが必要となる。

 

 いまの総理大臣や政権野党は、

どうやって民衆から税金を奪取するかと、

どうやってアメリカのご機嫌をとるかに、

精一杯なので、まったく見込みがない。

 

 じゃ、在野の評論家たちに物申していただくか。

 

 しかし、いまの評論家たちは、実存主義の終焉と、構造主義の台頭を

目の当たりにした人たちである。

 

 実存主義なら、「こうすべきだ」みたいな、強行な物言いが

日常化していたが、その発話者にも、偏見やバイアスがかかっていると、

そう説いた構造主義は、こういう「しなくてはならない」のような

物言いをすべて排除したのだ。

 

 だから、内田樹も、中沢新一も、「こうしなくてはならない」とか、

「こうすべきだ」、という言い方をまったくなさらない。

 こういう言い方を「当為」というのだが、

 いまの識者は「当為」の文体を放棄せざるをなかったのだ。

 

 なぜなら、にんげんには、偏見がまじっているから。

 

 

 いまの世の中は、ポスト構造主義の時代といわれているが、

いまだ、この構造主義の思想がすべて消滅したわけではない。

 だから、当為の文体をみることはほとんどない。

 

 それは、たしかに、時代性として、もっとも正しい言説だったのだろうが、

その反動として、ファシズムのような、強権的な物言いもなくなったかわりに、

心から追随できるようなリーダーも失ったということにほからない。

 

 

 オピニオンリーダーの消滅である。

 

けっきょく、内田先生は、みずから構造主義を説明されながら、

みずからの言説の説得性まで、希薄してしまったという

パラドクにおちいることになるのである。

 

 この世で、だれに従えばいいのだろうか。

 

 みな外の世界で生きているだれに。

 

 庭では、コオロギが夜の世界を凌駕しながら鳴いている。

コオロギは必死で世界の内側で鳴き続けているのである。