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近代合理主義

近代合理主義とはなにか。


現代にいたるまで、
ヨーロッパの歴史を大きく三分すると
古代・中世・近代とわけることができます。


古代ヨーロッパとは、ギリシア神話の世界、
多数の神々が、にんげんのように悩み、生き生きとした
時代でした。


が、中世にはいると、キリスト教の普及とともに、
王政の時代となり、人びとは、その専制的な政治に
苦しみむことになります。

これを後々のひとが、暗黒の時代と呼びました。
人々の唯一の救いは、教会でした。
言い換えれば、人々は、キリスト教的価値観だけで、
生きることができたとも言えます。


しかし、近代に入りますと。この封建制ヒエラルキーが
崩れます。王政の崩壊です。

人びとは、自由を手にすることができました。
そして、キリスト教的価値観からも脱することができたのです。

また、暗黒の時代を忘れようとしたのか、あるいは、
古代の人々のたましいを望んだのか、
自由を手にした人々はは、
古代の精神を見倣おうとしました。
これがルネサンスという文芸復興の精神です。

また、教会の必要性も薄れました。
つらい場からの逃避をする必然性がなくなったからです。
こういう教会の不要を唱えたキリスト教を「プロテスタント」と
呼びます。


さて、近代をむかえ、、
宗教的な価値観から開放された人々は、
理性的な判断を強いられました。

つまり、じぶんでものをかんがえ、
じぶんで判断しなくてはならなくなったのです。

自由というものは、そういう意味では
不自由なのかもしれません。

みずから思考放棄したいなら、絶対的な何者かに、
頼っている方がずっと楽です。

これが全体主義を産む根本的な理路です。


全体主義のなかに身をゆだねていれば、
たしかに、回れ右のような生き方なのですが、
その中に、楽ちんな自由が謳歌できるかもしれないのです。

話をもどしますが、
近代になり、理性的な判断をするようになったことを
「合理」といいます。

これが「近代合理主義」のはじまりです。


「合理」というのは「理性的にものごとを考える」ということです。

この時代に、デカルトという学者を輩出しますが、
かれが言ったのは「コギト・エルゴ・スム」です。

日本訳は「われ思う、ゆえにわれあり」。
つまり、みずから考えることによって、じぶんという
存在があるのだ、ということを言っています。


宗教的価値観にたよっていた人びとに課せられたのは、
「コギト・エルゴ・スム」であったわけです。


その中で生まれた学問が「科学」でした。

科学は、例外を好みません。科学で証明できそうもないことは、
科学の領域から除外しました。

だから、霊魂とか、にんげんの心理などは、
科学の分野から外されたのです。

 科学はいつ、どこで、それを計算や実験しても、
おなじ答えでなければなりません。これを普遍性とよびます。

普遍性とは、再現性のある状態をいい、あるいは、
例外のない状況をいいます。

 そして、科学は、どんどんと対象を、大きなものから、
小さなものへと推移させてきました。いまでは、
ミクロの単位を超えて、それより、はるかにちいさな単位を
研究するようになりました。

 対象をどんどんちいさなものにすることを「要素還元」といいます。
「要素還元」された科学が、いまもっとも課題としているのが、
いままで除外してきた領域もふくめ、もっと、大きな科学として
再構成できないものかと、そういう課題が取り上げられています。
つまり、「マルチサイエンス」の分野です。


と、話が現代にまでおよんでしまいましたので、
近代にもどします。


デカルトは、自然はにんげんに克服されるものだと説きました。

にんげんが自然を支配する、そういう考えです。
これを「デカルト二元論」、あるいは「物心二元論」とよびます。

つまり、二階建ての家で、二階ににんげん、一階に自然がいる、
そんな感じです。

きびしい自然のなかにあるヨーロッパですから、
それもやむをえないかもしれません。

しかし、デカルト二元論などの考えによって、
自然破壊が、今日までつづいてあることは、
看過できないことであることはいうまでもないことです。