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楽しさとは

 「よく、学校がつまんないって言っている生徒を
見かけるが、じつはじぶんがつまんないニンゲンだ
ということを証明してるだけ」


 と、自明とまではゆかないまでも、
いつもおもっていることをツィートしたら、
ふだんの10倍のインプレッションだった。


 リツィートも10件あった。レアなことだ。


 面白さというものは、向こうからやってくるものではない。

面白さ、楽しさというのは、
砂浜から桜貝を拾うように、どこにでもある中から、
じぶんで探し出すものである。


 砂浜はどこにでもある。しかし、桜貝をさがすのは、
そのひとの、積極的な働きかけである。

 桜貝が「ここにありますよ」って告発することはない。

 絵画の本質は額縁にありは、チェスタートンだが、
チェスタートンが言うことは、
横に細い額縁にキリンは描けない。
額縁にあわせた対象物しか描けない。
が、決められた空間でも、そこから創造は可能だ、
ということを、イギリスの批評家は言っているのである。


 つまり、学校というかぎられた空間で、
かつ、校則という縛りのなかで、
それでも、そこから創造性は発揮されるだろうし、
楽しみも、見つかるはずなのだ。


 いつでも、パレードが現前するわけではない。

 それが「生きる力」というものだろう。

 そんな、簡単なことなのに、ツィッターでは
むやみに反応するものだから、
むしろ、わたしは、むしろ心配になってくるのだ。

 
 ♫ しあわせは歩いてこない、だから歩いてゆくんだよ

 水前寺清子もそう言ってるじゃないか。


 自転車には、まずさいしょから乗れる子はいない。
倒れながら、補助輪をつけながら、
徐々に、慣れてゆき、しだいに、身軽に運転できるようになる。

 慣れてくれば、自在に右にも左にも曲がれることができ、
つまり、自転車を支配することができるのだ。

 そこに、ひとは幸福を感じるはずである。

 たしかに、自転車というひとをはこぶ装置はあるが、
それを自在に動かすことは、そのひとの努力である。


 こういう幸福論こそ、ニーチェの説くところであって、
しあわせは、みずからが作り出すものなのである。


 それができないひとは、よくひとの話を聞くことだ。


 マツタケの山があったとする。
その山の管理人が
「いまから、マツタケの取り方を教えっぺ」
と、マツタケ攻略術を伝授してくれた。

そのとき、そのすべてをノートに書くやつ。

うんうん、って聞いているだけのやつ。

まったく聞かずに寝ているやつ。

「んだ、そんじゃ、山さ行ってみんべ」
と、言って、自由時間となる。


ノートに、そのノウハウをしこんでいるやつは、
「あ、あった。ここにも」と、
管理人の言われた通りに行動するものだから、
マツタケをおもいのままにゲットできる。

 聞いているだけのやつは、
どこか情報が抜けるので、ノート君ほどの収穫はない。


で、寝ていたやつである。

「なんだよ、この山はよ、なんにもねぇよ」
と、ただふらふら歩くだけである。

で、なんにも取れずに帰宅してひとこと。

「あの山、つまんねぇょ、なぁんにもねぇからよ」