・カナリアに逃げられし籠昏れのこりわが誕生日うつむきやすく 寺山修司
寺山修司は47歳で永眠した。
たくさんの名歌と、戯曲を残して。
わたしは、幸か不幸か、寺山の年よりも十年以上、
親友の星野さんよりも3年以上長生きをしている。
あと4年も生きれば、東京オリンピックが見られる。
はたしてわたしは東京オリンピックを見られるのだろうか。
もし見られるのなら、わたしは、
この目で二度、東京オリンピックを見ることになる。
さいしょのオリンピックは、昭和39年の十月十日。
ちょうど、わたしの誕生パーティーを
我が家でおこなっていたときである。
クラスの友だち十数名をあつめて、
ケーキや食事を食べていたのだとおもう。
もう、いまとなっては、なんのプレゼントをもらったか、
はたまた、どんなご馳走がテーブルに並んだか、
すっかり忘れているが、
男子も女子も、うちにきていたとおもう。
もちろん、わたしが主人公である。
なにしろ、誕生日なのだから。
と、わたしが、台所だったか、どこかに行って、
いざ、一階の、みんなのいる八畳間にもどってみると、
そこにいるはずの、すべての友だち(だとおもっていた人)が、
ひとり残らず、いなくなっていたのだ。
六歳の、なんにも穢れもしらない、
よく半べそをかいていた少年に待っていたものは、
お祝いの声でもなく、にぎやかな笑い声でもなく、
たのしい会話でもない、
がらんとした、だれもいない部屋だけである。
唖然とした。
あの焦燥感、悲壮感、孤独感。
じぶんの誕生パーティーの途中で、
人っ子一人いなくなってしまった、悲しみを
じつはいまも忘れていない。
「おまえは、世界の中心になんかいないのさ。
いつだって、ひとりきりだよ」
そういう天からの声を聞いたような気がした。
じつは、このとき、東京の空には、
航空自衛隊が、五輪の輪を、
飛行機雲で描いたときだったのだ。
それを、みんながおもしろがって外に出て
見に行っていたのであり、
しばらくしてわたしの友だち(だとおもっている人)は、
また、ちゃんと八畳間にもどってきてくれたのだ。
が、置いてきぼりの喪失感は、
いまの、わたしの人格のどこかに、
酸が侵食するようにじわじわと
滲み込んでいるような気がするのである。
わが誕生日うつむきやすく、である。