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店にもどる

「ユミちゃん!」

彼女をそう呼んだのはこれが初めてである。

わたしが店を出るや、彼女が射撃の的のように
わたしの前を横切ったのだ。


「はい」

びくっとして、彼女は立ち止まり、右手を軽くあげた。
きゅうに指された生徒のように。

「いまお帰り」

「うん、あ、びっくりした。いつもちがう格好ですね」

「うん、塾に行くときだったら背広だから
もっとちがいますよ」

「あ、まだ、先生を」

「はい、夜はまだやってます。
これから25分帰れないんで、
店でチャーシュー作ってるんです。
25分かかるから、このへん、ふらふらしようとおもって、
あ、そうそう、駅まで送っていきますよ。夜道はあぶないし」


「そうですか、はい」

おそらく、これもなにかのお導きかもしれない。

「ご迷惑?」

「いえ、先生ってなに教えているんですか」

「ん。国語」

わたしたちは、自転車をおしながら歩き出した。
いつも、いま流行りのショルダーを背中に背負って、
ややうつむき加減に彼女は歩く。


「本を読むの好きなんですか」

「うーん、あんまり」

「そうなんですか。わたし、好きなんです、読書、
村上春樹はいつも読んでます」


「むつかしいよね。羊をめぐる冒険は」

「あ、読みました」

「ダンス・ダンス・ダンスは」


「うん、読んだ」


「『羊』が出てくるとおもしろいよね」

「うん、そうそう。国語って、なに教えるんですか」


「出題者がへんてこだと、答えがわかんないです。
そういうの教えてる」

「あ、わたしの塾のせんせいもそんなこと言ってた。
明日もお店やるんですか」


「はい、毎日。でも、明日は昼だけ。また、よろしければ」


「はい、明日は早番で8時には行かないと」

彼女は、うちの店のとなりのとなりで、
ロッククライミングの店で働いている。

実家は九州で、ひとりぐらし。
さいしょにうちの店に来たときより、
髪の毛があかるい茶になって、眉毛もその色にあわせている。


さいしょのころは、なんにもしゃべらず、
ニコリともしない娘さんだったが、
いまじゃ、よくしゃべり、よく笑う。


こんふうに、いっしょに夜道をあるくことはなかったけれど。


「ご実家、たいへんですね」


「あ、そうです、うちは平気なんですけれども」


「そろそろ駅です。よかったですね。
無事にきました」

と、彼女は笑って、

「はい。じゃ、さようなら」

と、さっき挙手をした右手を
こんどは横に軽く振って彼女はホームに入っていった。


いっしょに歩いて気になったのは、
彼女のストレートネック、
ずいぶん若いのに凝りが溜まっているだろうことだ。


そんな機会があれば、すこし
治してあげようかなって、
余計なことをおもいながら、わたしは店にもどった。