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話がずれた

 そもそも我が国の民は「自我」というものがなかった。

 アイデンティティとかいうらしいが、こんなもの、
江戸時代までは存在しなかったのだ。

 じぶんらしくなんて、江戸の町民はおもったことない。
すべては、時代の要請として生きていた。

 だから、武士は主君を守るために、ひたすらつくした。
農民は、米作りにいそしみ、なぜ、じぶんが米作りをするのか、
それに疑問をいだかなったはずである。

 ましてや、旗本が
「じぶんらしく生きるため、武士を捨てる」
なんてありゃしない。

 たしか、今みたいなセリフを
暴れん坊将軍のなかで、言った旗本がいて、
みな、おぅ、とか言って、拍手喝采だったが、あれは、虚偽である。


 個人情報だって、ついこのあいだまではなかった。

 「個人」は、「individual」の訳語だし、
「情報」は、森鴎外の造語である。

 どっちも、日本人がつむいできた言語とはちがう。

 日本人が、ほんとうに身についている言語は、
とっさのときに発するときである。

 びちってだれかを叩く。

と、「痛っ」って叫ぶ。この「痛っ」こそよくわかる言語だ。

 ヤカンに触れて「熱っ」、この「熱い」もそうである。

「痛い」ときに「激痛!」とか言わないでしょ、とっさには。

 つまりは、大和言葉というものが、
われわれの身にしみついている言語なのであり、
それは、よく理解できるが、
こと、造語なり、訳語なりにふりまわされると、
造語や訳語は、身体に根付いていない
頭だけの言語だから、うーん、よくわかんないよ、
ということになりかねない。


 話がとんでしまったけれども、いつから、
この国民は、個人情報とか、セクハラとか、
体罰とか、そんなことにきびしくなったのだろう。


 おれなんか、よくひっぱたかれたな、先生に。

 文明がすすむにつれ、にんげんが弱くなったてきたのだろうか。

 どうもそんな気がする。

 そのくせ、電車のなかで食事するやつとか、
道徳が欠如してくるやつも増えてきた。


 ようするに、高度文明の陰には、
にんげんの弱体化とモラルハザードとが、
偶有するようになってしまったのではないか、
ということである。

 
 一年くらいでいいから、
どうかな、個人情報とか、セクハラとか、
そんなことを言わない年がないものだろうか。

 それから、消費税。