わたしども短歌の仲間が二次会などすると、
どういう集まりですかって、
店の方は気になるのだろう、よく訊かれる。
たしかに、(へんてこな)老若男女がわいわいやるものだから、
不可思議な集団に映るにちがいない。
わたしが、短歌をはじめるきっかけは、小野茂樹の歌だった。
ちょうど『サラダ記念日』が話題になっていたころだ。
・あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ
ふるえた。この喚起力、すなおな筆運び、
かつ、新鮮でさわやかな空気感、わたしはすっかり舌を巻いた。
こんな作品をつくってみたい、そうもおもった。
しかし、まだインターネットも普及してない時代、
どこに問い合わせればいいのか、さっぱりわからない。
いまなら、アマゾンでものを買うように、
クリックひとつで短歌の世界に足を踏み入れることができる。
だから、ネットを駆使できる、それも著名な方なら、
その権威をもってたくさんの仲間を青田刈りもできる時代である。
さて、当時、昭和の終わり頃、わたしは、高校の教員で、
かつ、学校案内の作成委員だった。委員はわたしひとりである。
おまけに、中学校向けのポスターも手がけており、
それらのすべての権限も与えられていた。
そこで、わたしは、写真好きの教員が撮った北海道の畑の写真に、
この小野茂樹の歌一首だけを据え、
学校名だけの、じっさいなんのポスターかわからないようなシロモノをこしらえた。
けれども、だれからもクレームがなかったから、
「しめしめ」なのであって、どうやって短歌界に
参入してよいかわからないわたしにとっての、
ひとつの発信ができたのである。
と、ポスターが中学校に貼られたころ、
おもいがけず、学校に電話があった。
それは、ポスター作成者の方と話がしたいという電話であり、
わたしが電話口に呼び出された。
それが下南拓男先生だったのだけれども、
わたしは、その電話に舞い上がった。
「わたしどもは、小野茂樹と懇意していたものですが、
どうか、あなたとお会いしたいのですが」
柔らかな電話口の声。
わたしは、二つ返事で了承した。
昭和から平成に移るころは、
こういうアナログなしかたでしか繋がることができなかったのである。
「鎌倉駅で、土曜日の十一時に、われわれは待っています」
「かしこまりました。でも、わたしは、みなさんのことを存じ上げませんが」
「わたしたちは、立っているだけでわかりますから」
下南先生とは、そのような電話であった。
立っているだけでわかる、どういうことなのだろう。
さっぱり見当のつかないまま、
わたしは、鎌倉駅に行った。
土曜日の、ややにぎやかな改札を出ると、
タクシー乗り場のすぐそばに異様な集団が立っていた。
それは、事後的に知るのであるが、
甲村秀雄であり、
下南拓男であり、
小村井敏子であった。
なんだろうか、あの独特なオーラ。
「いた、いた、あれだ」