乗り放題というチケット、
あれを入手すると、「元を取ろう」と躍起になる。
そういうひと多いよね。
食べ放題、これも「元を取るまで」と根性がいやしくなる。
リフトにきょうは何回乗ったから、ラッキー、とかいう。
白銀の世界を心地よく滑り降りることよりも、
そういうひとは、
何回、リフトに乗れたかのほうが、目的になっているのかもしれない。
もうこれいじょう、無理、とか言いながら、
まだソフトクリームをドロドロと機械から出している。
たしかに、元を取ったかもしれないが、
それによる代償は、幸福を飛び越して、
満腹のうえのさらなる地獄の苦しみと向き合うことになる。
そんなひと、いるよね。
食文化というのも、どこかに「遊び」の要素がほしい。
「遊び」それは「楽しむ」ということにほからないのに。
ディズニーランドなんかでは、
何回そのアトラクションに乗れたかではなく、
その空間でどうやって楽しむのか、
という、みずからの鋭敏な感性が発揮される場だとおもうが、
どうもそういうひとはすくないようだ。
話はずれるが、ディズニーランドは、
すべての楽しみ方がランド側から与えられていて、
つまり、受動的なわれわれがいるのだから、
そこで、わたしたちが、想像力を発揮しなくてもいい空間となっている。
与えられたものを受ける、そういう場である。
だから、何回乗った、とかそんな情けない
個別の喜びしかないのかもしれない。
ま、ディズニーランドを文化にカテゴライズさせるかどうか、
それはもんだいだが、
しかし、百歩譲って、それも文化として考えれば、
つまり、すべての文化的なことがらが、義務化されているということだ。
もともと文化とは非合理なものだから、そこに義務が
発生するのは不可思議なのだが、どうもそうらしい。
食べログに、いちいち、デフォがなんとか、着丼に何分、
動線がわるい、とか、まあ、それはわからないこともないが、
そういうコメントを書く方は、どこかに食べログに書くことに義務を感じているのではないか。
もっとおおらかに楽しんだらいかが、と、わたしはそうおもう。
これは、日本時的気質がそうさせているのだろうか。
じゃ、日本人ってなんなんだろう。
やはり、この根底に「働き者」というDNAが潜んでいるのかもしれない。
日本国憲法は、義務より権利のバランスが強いといわれているが、
なになに、日本人は、しっかりと遊びまで義務化してますよ。
ご安心を。
と、言いつつ、そういうわたしも、
いつもなにかをしてなくてなならないような、
どこかに強迫的なあるなにかが作動している。
ぼーっとできないのである。
もっと、遊び文化を啓発して
ゆかないといけないのではないだろうか。うん、反省。
という気持ちもあいまって、
わたしは唯一、釣りをしていて、ほとんど坊主におわるのだが、
それを残念とおもったことがない。
なぜなら、遊びだからである。