まだコロナ渦のころ、
野田さんがマスク忘れたというので
これでよければと黒いマスクをさしあげた。
「おれ、黒いマスク好きじゃねぇんだよ」
とひとこと。
「あのね、ひとがあげたものだから、
すなおにもらっておけばいいじゃないですか」
十年も年上の野田さんだから、
わたしどもに遠慮なくもの言うのもしかたないこと
なのかもしれない。
そういえば、野田さんから「嫌いだ」という言葉は
よく耳にするが、「あれ、好きなんだよ」は
あまり聞かない気がする。
なぜか。
ひとは、あるものを好きだというときは、
おそらく心をひらいているのではないだろうか。
胸襟を開き、そのものを受け容れる。
それが「好き」という行為の精神性なのではないか。
その精神性は換言すれば、じぶんの
弱みを他者にあけすけに見せてしまうことに
ほかならないのでは。
これ好きなんだよ。
そう言われると、そのひとの性向が
ある部分が開示されるわけで、それこそ
そこがそのひとの弱点で、好きだということと
同時にそれについての理屈を言語武装していないと、
じぶんが保てないのかもしれない。
が、しかし、「これ嫌いだ」というばあい、
それは、こころが閉じているので、
みずからのアイデンティティを披露する
ひつようもない。
こころが遮断されているのだ。
じぶんの弱点をさらすひつようもない。
加齢すればするほど、ひとに弱点を露呈するひつようがないと
そう無意識にでもおもっていれば
おそらく「好きだ」というより「嫌いだ」という
ことのほうがおおくなるのではないかと、
わたしは推察する。
「野田さんは、好きだというより嫌いだのほうが
多い気がしますね」とわたしがもうしあげると
「ん。そんなことはねぇよ。おれ、嫌いだなんて
あんまり言わねぇよ」と言下にこたえた。
ふたりで鷺沼のドトールでコーヒーをのんでいるとき、
そんな話をしていたのだが、
「家のなかで犬とか猫ととか飼っているいえあるだろ」
「あ、うちもそうですけれど」
「孫が犬飼いたいっていうんだよ。でも、
その家には庭がないから、家の中で飼うことになるから、
そうしたらおれ、あなたのおうちにはもう行かないよと
言ったんだ」
「え、どうしてです」
「おれ、家のなかで動物飼うの大嫌いなんだよ」
(やっぱり「嫌い」って言ってんじゃやん)