後鳥羽院という平安から鎌倉にかけての天皇がいた。
才覚あふれる天皇である。
和歌にすぐれ、醍醐天皇の「古今集」をこよなく愛し、
ゆえに「新古今集」を勅命し、醍醐朝にあった和歌所を再興し、
旺盛に文化の興隆に寄与された。
藤原俊成は長命で、90歳の祝いを後鳥羽院がもよおし、
その息子、定家には「新古今集」の編集を命じたほど、
藤原氏とは親密な関係にあった。
当時の歌人、30人を選出し、
歌人ひとりずつに100首の歌を作らせ、右・左にわかれて
つまり、3000首の歌を半分に分けて、
1500回の歌の優劣を競わせた、
いわゆる千五百番歌合は、わが国最大の歌合として有名である。
審判、つまり判者には、
後鳥羽院みずから、あるいは俊成、定家などがついた。
が、藤原氏との関係も、新古今集編纂のころからいささか
あやしくなる。定家と院とに意見の対立があったようだ。
そもそも、定家は俊成のスパルタ教育で、わりにみみっちい性格らしく、
歌は、丈高く立派なのだが、どうも性格は内向的だったらしい。
よく知らないけれども。
きっと、あの堂々たる後鳥羽院に、チクチク言ったにちがいない。
それも、影口とか。
だから、新古今集が1205年に出来上がるころには、
ふたりの不仲説はかなりうわさされていたようだ。
これからおおよそ20年、1221年、
後鳥羽院はごぞんじのように、幕府倒幕の罪で隠岐島に流される。
このとき、定家はこの難を逃れているのである。
政治とわれとは無関係である、と宣言したという。
しかし、隠岐島の後鳥羽院の怨み、怒りをおそれていたことは明らかである。
じっさい、院は二度と京都の地をふむこともなく、
都よりはるかはなれた日本海の孤島で亡くなるわけである。
定家は、後鳥羽院の魂を鎮めるため、なにをしたか。
一服の絵を描いたのである。
水無瀬には、後鳥羽院が愛してやまない離宮があった。
その水瀬離宮の絵を壁にかざって、院を鎮魂したのだ。
が、しかし、水瀬離宮の絵をそのまま飾っていれば、
幕府の役人になにを詰問されるかわらない。
そこで当時の文学のリーダーは、
水無瀬の絵をこまかく区切って、
区切った半紙いちまいくらいの風景すべてを
和歌に変換して、壁に貼ったのだ。
その作業たるや並大抵の努力ではなかったはずだ。
それも、みずからの歌ではない。
他人の歌を百首あつめ、
なかには後鳥羽院御歌、息子の崇徳院の御歌まであり、
その百首を貼りつつ、その裏に透けて見える、
水瀬の風景を、かれは心のなかで念じながら、
祈っていた。
院の心よ平らかになれかしと。
それは、大魔神の身許で涙する高田美和のごときである。
(といってもわからねぇだろうなぁ)
だれにも悟られず、ひとり静かに後鳥羽院の魂を
鎮める日々は永遠につづいたことだろう。
これが、みなの知るところの百人一首となって、
いまも世に残されているのである。
付記
これはフィックションではなく、ある学者の説である。
なぜ、それに気づいたかといえば、
その歌人のおもて歌があるのに、わざわざそれより下る歌を
なぜ定家が選んだのか、というひとつの疑問から、
逆算して、このような仮説にいたったということである。
おしまい