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風景とわたし

 いちど日記に書いたけれども、
街に老人が多いとおもうのは、
じぶんが老人だからである、という
じつに残酷な事実にきづいてしまった。


 そういえば、まだ子どもがベビーカーに乗ってるころは、
やけにこの街には、ベビーカーがあるものだと、
感心したおぼえがある。


 もっと前にもどれば、わたしが高校生のころには、
他校の生徒に目がいった。


 そこで、塾の生徒さんに訊いてみた。
そうしたら、やはり、他校の子が気になると、
口をそろえてうなずいていた。


 宮台真司氏は、じぶんの知り合い以外は、
すべて風景になっている、と現実を把握しているが、
わたしはそうではないとおもう。

 じぶんの事況と同質のものが風景となっている、
そうかんがえたほうが、わたしの日常にふさわしい。

 じぶんとは無縁のものは、風景にもならないのである。

 みずからを含む風景を俯瞰することを、
ヘーゲルは「自己意識」と呼んだ。

 おなじことを、フッサールは「超越論的主観性」と言った。

が、それとはすこし異なるが、じぶんの見える風景こそが、
自分自身なのである。

 それをヘーゲル的に言えば、
「自己意識的風景」というのだろうか、
フッサールで言えば、
「超越論的主観性状況」かな。

 「おれの学校、つまんないよな」
なんて言っている生徒、よくいるが、
それは、学校がつまらないのではなく、
お前じしんがつまんないやつなのだ。


 じぶんがつまらないということを無意識に宣言しているだけなのだ。


 世の中、つまらん。

 ま、これも、おんなじ構図である。

 見えている風景こそ、じぶんであり、風景が鏡となっているのだ。

いや鏡は、対象と反対に映るから、鏡ではない、
きみ、そのまんまが投影されている、そうおもえばよいようだ。


 だから、それを一言で言えば、こうだ。

 「風景はわたくしだ」