いまの時代は共通テストという名前になっているけれど。
わたしたちの時代は、
共通一次試験といった、全国共通の大学受験の関門は、
いまは、センター試験という名にかわり、
すでに、27年が過ぎようとしている。
当時は、国立試験を受験するひとたちの、
通り抜けねばならなぬ関所のようなものだったが、
現在は、私立大学も参加し、ほとんど全受験生が
受験をするシステムとなっている。
センター試験とは、すべてマーク方式であり、
わたしの知るところの国語という領域は200点満点、
毎年、全国平均が115点くらいである。
うわさによれば、大学教授が数名で隠密裏に
2年間かけてつくりあげているという。
つまり、お国の命により、選ばれしものがつくりあげる、
いわば勅撰問題なのである。
だから、なぜその答えになるのか、
ちゃんとした理由がある。
たとえば、古典。
「心づくしげなる秋の空なるは」の「こころづくげなる」は
どういう意味かと問うのだが、
その設問は5択であり、ほとんどものが2者択一までたどりける。
それが、このふたつ。
③物思いの限りを尽くさせるような
⑤深く心にしみ入るような
おんなじようにも見える。
が、この③と⑤の差異はよくみると、
「させる」が③にはある。使役の助動詞だ。
使役の助動詞というのは、他者がいなくては機能しない。
「ありがとよ、楽しませてくれて」って言えば、むこうにだれかいる。
「ありがとよ、楽しんだぜ」
これだと、ひとりでいい。
つまり、使役の助動詞をつかった文には、
おのず対象となる「なにか」の存在が必要なのだ。
そこで、「こころづくしげなる」である。
「こころづくし」は形容詞、うれしい、とか、かなしいという部類。
「こころづくしげなる」は形容動詞、うれしそうだ、とか、かなしそうだ、という部類。
ようするに、センター試験は、形容動詞とは
どういうものですか、という基幹的なことを問うているのである。
これ、きみへのプレゼント。はい。
え、うれしい。
ははぁ、うれしそうだね。
センターは「うれしい」に傍線をひいたのではなく「うれしそうだ」に
傍線をひいたことになる。
「うれしそうだ」のように相手の様子を表す物言いを「客体表現」という。
「こころづくしげなる」は客体表現なので、
客体表現の物言いをさがすのである。
③物思いの限りを尽くさせるような
⑤深く心にしみ入るような
答えは③である。⑤は「こころづくし」という形容詞の訳であった。
つまり、センター試験は、形容動詞は客体表現になるからねって
われわれに教えてくれているのである。
ここが、私立受験とおおいにちがうところである。
センター試験は、かそけきながら、なにが重要か、
受験生に教えてくれているのである。そのささやかな声を
耳にすることのできる受験生がこの国家プロジェクトを
制覇できるのである
だから、わたしは、生徒さんに「センターは会話だよ」って教えている。
その声に耳を貸しなさいと。
さ、もうセンター試験まで50日である。
どうだ、お前たち、まだ50日あるのか、
それとも、もう50日になっちゃったか、
どっちよ。
と、わたしは教室で訊いてみた。
ほれ、どう?
と、いちばんまえの生徒が「もう」という。
つぎ。
「もう」
その後ろ。
「もう」
はい、きみ。
「もう」
縦一列、すべて「もう」である。だから、わたしは言ってやった。
「お前ら、牛か」