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けなげさ

井上靖の小説に『姨捨』がある。1955年発表。

母親が「姨捨山に棄てられたい」と言ったことに
「私」はおどろき、それを空想したり、気にしたり。
 そして、そんな「私」が九州に公演に行くのだが、
そこで、遠賀川ちかくの仕事場にいる妹に会うというくだりである。

 妹の清子は、離婚してふたりの子どもも手放している。

「東京へ帰りたいけれど、当分はね」
清子はそんなことを言って、ちょっと淋しそうに笑った。
「同じ働くなら、東京でもいいじゃないか」
「でも」
意味不明な表情をとったが、
「もうしばらくここで働いて技術を身につけますわ。技術を身につける
ということから言えば、相手が外人さんだからここがいいと思うんです」
技術の習得の問題はともかくとして、清子は恐らく自分が出て来た
家から少しでも離れて住んでいたい気持ちであろうと思われた。


 実家から出て家族関係を断ち切り、子どもや夫も捨てて、
ひとり、九州の炭鉱町の片隅でつつましく暮らす妹。

 たしかに、ひとりという自由な境地、しかし、
それは、反面、孤独な境遇でもある。

 なにしかしらじぶんを支えるものがなくては、
か弱き枝は根元から折れてしまいそうである。

 小説はこう続く。

「お手紙出していいですか」
「いいも悪いもないだろう」
「では」
清子は擦り抜けるように改札口を通り抜けると、右手を上げて、
掌だけをひらひらさせた。少女のようだった。
苦労している女性の仕草ではなかった。


 この「ひらひら」に、
清子という人物のけなげさがにじみ出ているようにおもうのだ。

このけなげさというものは、
 あえて孤高な境遇に身を置き、その一方で、
ひとりになった自由の身という、アンビバレントなおもいを
できるだけ痛みにならぬようにふるまう、
そういうけなげさなのだ。

 もっと言えば、心の均衡をたもとうとする、
切ない自助努力なのだ。

 こういうしかたで、ひとは、みずからの負の遺産を
担保しようとするわけである。

 わたしは、この小説にふれて、ひとつおもいだすことがあった。

 この前まで勤めていた高校は、
薄給で有名で、おまけに非常勤講師などは、
コンビニでバイトしていたほうが「まし」なくらいの給与であった。

 え、これだけ、ってなんどおもったことか。

 でも、そこに、10年も非常勤講師をつとめているひとがいた。
もうひとりは8年目だったろうか。
どちらも社会科の先生である。

 8年目の先生は、妻子がおり、奥さんも働いている。
あたりまえである。暮らせないから。


 で、そのふたりは、第二職員室、
つまり非常勤講師の部屋で、いつも、
「え~、ここまで進んだの」
「わたしは、これで精一杯」
「あのクラスは、よく聞いてくれますから」

 など、とにかくクラスの雰囲気とか、
どこまで進んだとか、そういうはなしだけ、
空き時間に、とことんしゃべりだしているのだ。

 わたしは二年間そこにいて、
なんだか、すこぶるむなしい気持ちにおそわれていたのである。


 そんなことを言い続けなれば、
みずからを担保できないのかよって。

 つらい生活、すくない給与、そんなことを語ってしまえば、
じぶんがみじめになるだけである。だから、
「え~、そこまでやったのぉ」とか、
「はい、ここまで教えました」とか、
そういう、専任がけっして言わないだろう、
進度のはなしや、授業のはなし、そればかりを言い続けているのである。

 わたしは、その職場をあとにしたけれども、あのふたりは、
たぶん、あしたも、その次の日も、おんなじように語り合っているのであろう。




 井上靖の『姨捨』では、母親の煩瑣な日常から逃れたいと願ったのと
おんなじように、妹も、人間関係から逃れたいと願うわけで、
つまり、母も娘もおんなじ心情であったということなのである。


 みな、ひとは瑕を瑕としないように「けなげ」に生きているのである。