街を歩けば、学習塾にいく子どもたちの姿。
仕事をリタイアしたひとか、再就職か、旗を振って子どもを
誘導する大人。
こういう風景はいたるところで見かける日常である。
いわゆる英才教育を猫も杓子もさせようとする。
あるいは、習い事。すべては、「人並みのこと」をさせようとする
親の思考法である。
「人並み」というのは、この世の中で「人並み」ということだ。
いや、世の中という語は少し錆び付いて、いまは「社会」と言うのかも。
「社会」のなかで生きてゆくための「人並み」なもの、
これが正しいのだろう。
しかし、ほんとに社会があるのだろうか。
ソサエティの訳語としての造語だから、
社会があって、「社会」という言語が発生したわけではない。
日本にあったのは社会ではなく、世の中だったのだが、
それはそれとして、
もし、造語のまま社会が形成されているのなら、
この社会は、幻想なのかもしれない。
この世には、幻想はいくらでもある。
民主主義、紙幣、芸術、みんな幻想である。
ただ、これをみなが同意、承認しているからこの世に存在する。
幻想は、承認によって存在しはじめるという、
あたりまえの図式をたまに人びとは忘れる。
日本の民主主義は、ある世代のひとが共同的につくりあげた、
脆弱な制度だから、みんながそれを無視したら、
あっというまに消滅するのである。
紙幣だって、あんなの紙じゃんって言った瞬間、紙になる。
その、あるかないのかわからない社会なのだが、
英才教育は、その子に、その幻想たる社会さえも我関せず、
自分さえよければそれでいい、という思想を
植え付けさせてはいないだろうか。
つまり、社会のなかの一人前になるために、
いや、社会のリーダーになるために、
社会というなんだかわからないものを振り捨てて、
個人主義に迷走しているのではないだろうか。
仄聞するところ、英才教育を受けた子が、
成人すると、衝突もおおくなり、そういう教育を受けなかった子より、
三倍も重罪で逮捕されているという。
(ピーターグレイ氏の研究)
そういえば、近ごろ、隠れん坊をする子どもたちがいなくなった。
缶けりも。
たしかに、場所がなくなった、という地理的、空間的なことも
関係するだろうが、それだけではない。
隠れん坊とは、藤田省三氏によると、
「急激な孤独の訪れ・一種の砂漠経験・社会の突然変異と
凝縮された急転的時間の衝撃、
といった一連の深刻な経験を、
はしゃぎ廻っている陽気な活動の底でぼんやりと
しかし確実に感じ取るように出来ている遊戯なのである。」
と述べている。さらに氏は、、
「原始的な模型玩具の如き形にまで集約して
それ自身の中に埋め込んでいる遊戯なのであった。」
と付記する。
ようするに、隠れん坊とは、
遊びをとおして、社会の厳しさを、
みずからの内部に骨肉化させることによって、
社会に順応させる装置だったということである。
いま、こういうしかけがどんどん失われている。
ボンナイフ、どこかに消えた。
馬跳び、なくなった。ながい横ブランコも。
子どものうちから、そういう装置がはずされ、
業績主義的な個人主義におかされて日々を送っている。
でも、サピックスに通う子たちのいく人かは、
信号が青に変わるや、ばたばたと走って向かっている。
それも、無邪気に。