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店舗案内

鈴文

「おしっこしたあと、手洗った?」

「おぅ、右手だけ」

「ねぇ、そばに寄らないでくれる、汚いから」

「なんで?」

「汚いよ。石鹸で洗ってよ。せんせいの持っている
カートのとこだってもう触れない」


 鈴文に行くまえにM子とスーパーに寄ったのだが、
なにしろ、彼女は潔癖でかつ口うるさい。 

 きょうの目的は蒲田の鈴文にいくことである。

わざわざ「M子」は、T公園から来た。
なんとか公園、つまり井の頭公園、芦花公園、日比谷公園、
みな「公園」が地名に冠されるとおしゃれになるのだが、
埼玉県のT公園は、
それにどうもカテゴライズされてないみたいだ。


 蒲田の鈴文は、M子一家がよくいく店で、
その味はお墨付きというので、楽しみである。

 しかし、蒲田という大田区の場末の街は、
一方通行と猥雑な道路で駐車もままならず、
けっきょくナビで近所まで行って、
ランダムな気持ちでコインパーキングに入れることにした。


 ただ、このふたりは、いちど、
銀座のデパートから車に戻るまで、
弥次さん喜多さんよろしく四苦八苦し、
お互いを罵倒しつつの小旅行を経験しているので、
もしや、という気持ちもあったが、
とにかく、鈴文に行きたい気持ちが優先し、
だいたいの方角に歩き出した。


「わかるのか、場所」

「え。わからないよ」

「だって、何度も来てんだろ」

「忘れちゃったよ、ちょっと待って」
と、彼女は携帯で場所検索をし始めた。

「あれ、4キロも先になってる」

「んなわけないじゃん。5丁目だから、このへんだぞ」

 M子は、携帯を縦にしたり横にしたり、
つまり、どっちが「北」なのか、
それさえよくわからず、スマホの中に表示されている、
小さな青い三角形を凝視している。

「だからさ、どっちに歩くかもわかんないんでしょ」

「これさぁ、アプリおかしいんだよね」

このとき、わたしはアプリがおかしいんではなく、
M子の脳味噌がおかしいんだと確信していた。

「待てよ、おれもやってみるから」
と、わたしは鈴文をネットで検索し、
地図をタップし、歩きますマークのようなものをまたタップし、
その方角に従った。

生まれてはじめてナビウォークというものを
使ったのである。すばらしい!



M子は、面倒だっていうんでそぼ降る雨の中、
傘を車に置いてきた。
しかたなく、わたしの折り畳みにふたりは入ることになる。

「いいよ、濡れてもへいきだから」と、
言いつつも、彼女はしっかりと傘に頭だけ突っ込んでくる。


きっと、あの後、石鹸で手を洗ったから、
そばに寄ることができたのだろう。


鈴文は、歩き出して20分くらいかかってようやく
見つけ出した。

白木のカウンターに10席ほどのとんかつ屋である。
(奥にテーブル席があった)


鎌倉時代から生きている、とんかつ一筋のような
店主が不愛想に「いらっしゃい」と声をかける。

店内は、数名の客。ほとんどピールやワインなど、
酒が出ている。

わたしたちは、「特ロースかつ」を頼んだ。
2100円也。


どうも、歳を取り出してから、小水が近くなり、
トイレを拝借。と、そこには石鹸がなかった。

これは、M子にはけっして言えない事況である。

とんかつが揚がるまで、店主は、
いちども箸でかき回したり、ひっくり返したりしない。

じっと油に目を落としているだけだ。

まるで水琴窟の音に目をつむるように、
さながら香道の極意を極めたように、
彼は、とんかつが揚がる音をただ見ている、と言った感じである。

そうなのだ。音を見ているのだ。


しばらくして、300グラムの特大とんかつは、
まな板に乗せられ、包丁でさくさくと切られることになる。

まな板は、ちょうどわたしたちの目の前である。

切る前にいちいち、油に包丁をつけて、
それからさくっと切る。

と、中がまだ赤い。半生である。

だが、店主は、ひとつも表情も変えず、「お待ち」と言って
われわれにそれを手渡した。

と、どうだ。さっきまで赤かった肉が、
しだいに揚がってきているのだ。


つまり、鈴文は、「ぎりぎり」の揚げ方で、
客に提供しているのである。

この「ぎりぎり」はおそらく名人でしかなしえない
偉業なのだろうとさえおもった。

だから、とうぜん味は至高である。厚いのにやわらかい。
となりでソースをべちゃべちゃつけているM子を
横眼で見ながら、わたしは和からしだけで食した。


やはり、ここでもおなか一杯、胸●っぱいで、
店を後にする。

が、御多分に漏れず、珍道中がはじまるのだ。

「ね。どうやって帰るの?」

「え。なんとかなるだろ、お前ちゃんとしろよ」

「せんせい、大人でしょ。しっかりしてよ」

「お前だって、もう大人でしょ」

「こういうときは、大人がしっかりするんでしょ」

うるせぇなぁ、頭小突くぞ、いいのか、手洗ってないけど。