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ノスタルジア中国

 私の前世は中国人なのではないか、

さいきんよくおもう。理由はシンプルで、

このあいだ見た「花様年華」という映画にそこしれない郷愁を感じたからだ。

1963年頃の香港が舞台で、

みすぼらしいアパート、というより下宿といったほうがよい、

子供のそれぞれいない二組の夫婦が、

おなじ日に引っ越して、いつからか、

こともあろうに隣の亭主と主人公の妻がいい仲になってしまう。

 

おまけに海外出張その他もろもろの理由をつけて

ふたりは留守がちになっている。つまり、隣は妻だけ、

こちらは主人公の夫だけが取り残されてしまうという、

かんたんな算数がうまれているわけだ。

おのず取り残された片方ずつはこの関係に気づき、

遭難した男女が洞窟の中でしだい恋愛感情がうまれてゆくように、

あっさり恋に落ちてゆくのである。

 

が、ここからが中国映画の底力発揮で、

ふつうなら、消去法的恋愛関係のヒーロー・ヒロインたちは、

こっそり、ひっそり深い間柄となって、

いつからかは夫婦となり、ハッピィエンドとこうなるか、

許されないふたりは、ついぞ、深遠なる愛の沼にはまって、

手と手を取り合い薬をのんで死ぬ、

なんて筋道が見えている、

そうおもうではないか、ちがうんだな、これが。

この二人、レストランで食事したり、

男の書く小説のストーリーを手伝ったり、

それ以外、なにひとつはじまらないのだよ。

映画のなかでは、「ぼくたちは、

もうはじまっている」なんて台詞があるくせに、

なんにもはじまらないのだよ。

このプラトニックでパラレルな関係がエンエン二時間つづき、

そうしてふたりは、遠浅の砂浜を潮がひいてゆくように別れてしまう、

 

なにひとつ盛り上がらないまま。

クライマックスや映画特有のバイオリズムがとことん皆無なのである。

音叉でたたいたAの音が一定の波動で永遠鳴りつづけるように。

さいしょ見終わったあと、なにも起こらない恋愛映画に

不満やフラストレーションをもつ諸氏は多かったろう。

が、これが中国のDNAなのだ。

揚子江の蕩々と流れる国には悠久の時が

しずかにながれているだけなのである。

 

一〇〇キロ川下に下ろうとも、

景色はなにひとつ変わっていないのだ。

人間の営みなど自然のなかではほんの

ちっぽけなかけらでしかない、

というメッセージをわたしは「花様年華」からくみ取ったのだ。

 

この茫々たる時の感覚を味わえたのだから、

わたしのからだの奥底に中国のDNAが流れているのは

間違いのないことではないか。それが証拠にわたしは麻婆豆腐が好物なのである。

 

 ことしは、黄砂の舞う量が多いらしい。

わたしを呼んでいるのだろうか。