ヒトが直立歩行したときから
肩こりははじまったとよく言われている。
わたしなども例外でないはずだが、
腰とか足とかもっと疲労がたまっている箇所が随所にあるから、
神経が肩にまでまわらなくほうっておいている。
二の次っていうやつだ。
テレビなどで、肩こりの素人治療法をやっているのをみていると、
一様に腕を肩よりうえに挙げる運動を勧めているようだ。
首から肩に向けて延びるスジの下側の血が
うまくながれないのが原因らしい。
だから、バレーボールやバスケットボールはすこぶるよろしい。
どう動いたって手が肩よりあがるという仕組みだ。
わたしがここで言いたいのは、
じつは蜂須賀正勝親子のことなのである。
蜂須賀正勝といってもピンとこない方は、
蜂須賀小六といえば了解するだろう。
太閤記で豊臣秀吉の家来となった大泥棒である。
信長と蘭丸、義経と弁慶、金太郎に熊、
なんかとおなじような力学的主従関係が
日本の歴史にはつきもののようであるが、
とくに太閤記ではこの大泥棒を家来にしてしまう
秀吉の手腕がこぎみよく描かれている。
が、蜂須賀正勝は斎藤道三や織田秀信などに仕えていたから
もっぱらの大泥棒じゃなかったし、その息子、家政は父とともに秀吉に仕え、
中国、四国征伐に功があったことなどから、
ちゃんとした政治力をそなえた武将だったのだ。
家政は阿波一国を領し徳島城主となる。
関ヶ原の戦いで負けた西軍に参加しておきながら
当日は欠席、おまけに家政の子どもの至鎮が
徳川方だったという事情で、
当のご本人は無事という奇蹟的な生き方をしている。
日和見順慶と筒井順慶をマイナスに評する人がいるが、
ここには、日和見どころか、敵のくせに難をのがれた天才的な政治家がいた。
家政が阿波守になって
「阿波徳島の領民が新しい領主蜂須賀氏を迎え、
城の落成を祝って始めたもの」(日本民俗大辞典 吉川弘文観)が、
あの阿波踊りである。が、これは、おそらく
家政が民間で継承されていた踊りを阿波の国家的行事として
採用させたのだとおもう。そうでなければ、
唐突に踊りが始まる理由がつかない。
つまりイベント企画会社の社長でもあったのだ。
この企画がじつにロウカイであった。なぜなら、
お盆の三日間、県民はすべての仕事から解放され、
しこたま酒を飲み、踊りつづけるわけだから、
プレーヤーはおのずエイエン手を上に挙げつづけていることになるので、
手を挙げる運動によって肩こりの治療を
ゃんとさせているという図式ができあがっているからなのだ。
昂揚した農民はすっかり精神的にも
肉体的にもリフレッシュ、もちん肩こりもとれ、
また、来年の阿波踊りを首を長くして待つ、
というタイムスパンを作り上げてしまったのである。
これが政治というものである。
農民は、文字通り踊らされているのである。