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子どもは残酷であれ

 子供は残酷である。

むすめのともだちがわたしを見て、

おじちゃん、顔赤いよ、どうしたの、って言うから、

え、そんなことじぶんでもわかんないよ、

と言ったら、わたしをじっと見ていたその子が言った。

気持ち悪い。

 

 子供というのはひとを平気で傷つける。

人間でさえその対象となるから、

ましてや小動物などカッコウの獲物となる。もちろん人間とちがい直接的に。

 

むかしは、雨ガエルやとんぼがよくねらわれた。

いや、愛着をこめて遊んでいたといったほうがいいかもしれない。

遊んでいたといっても、

むこうは命をうしなってしまうのだからとんだ迷惑だが。

 雨ガエルは、まず数匹確保されると、

木の枝に串刺しにされ、トーテムポールみたいになって水たまりに放置された。

あるいは、おしりのあなから松の葉をさされ動けなくされた。

 

 とんぼは2B(という花火)を巻きつけられ着火とともに空に放される。

ア・メ・リ・カァ・ナーなんて叫びながら

機関銃がわりの傘でねらいをつけて、

ダ、ダ、ダ、おのずとんぼは自爆した。

 

 子供は残酷である。

が、この残虐さがじつは人間形成において

すこぶる大事であったのだ。

とくにカンジンなことは、

このアウシュビッツ的行為をけっして

だれからも叱責されてはならない、ということである。

 

 小動物たちのあわれな他界は、

子供たちのこころにしぜん記憶される。

このときに、だれかがこの行為を叱咤激昂、

烈火のごとく怒るとする。こらっ、

なにをしておるかあ、ちいちゃな生き物にも命があるのだぞ、

バシッ。と、子供というものは、

叱られるとたしかにしょげて萎縮するかもしれないが、

ぎゃくに自分の行為にケリがついて、

ほっとすることも事実である。罪の意識から解消、

ちゃらになってしまうのだ。けれども、

小動物との残酷なコミュニケーションに対して

何人も叱らなかったとする、と、子供は罪の意識から逃れられずに、

エンエンそのもやもやとしたわだかまりの

塊をこころのどこかに埋め込んで

生きてゆかなくてはならなくなる。

この、わだかまりこそ、

ひとが優しく生きてゆくための急所のチップなのだ。

 

解消されない罪の意識、

罪悪感を埋め込まれた人間は

ひとを傷つけることへの自己嫌悪をじゅうぶん知ってしまうのだ。

 

 そんな実地のない子供が、

あるいは、経験する前から親に小動物の

いじめを禁止させられたりした子供が、

大人になって平気でひとを殺したりしているのかもしれない。

 

 子供は残酷であれ。