Menu

お得なアプリでクーポンGet!

店舗案内

自己愛

芥川龍之介の『羅生門』は、

近代的自我を問題にした小説に

リニューアルしたという点において

夏目先生からひどくお褒めをいただいたのだが、

なるほど『羅生門』はなかなかこった作りをしている。

 

わざわざ雨を降らし、下人をあの場所に閉じこめ、

つまり空間的に固定させたり、

なんどか下人ににきびをさわらせたり、

そのへんの心理状態まで綿密に計算しているふしがみられる。

 

 だいたい、にきびをさわったり、

爪をかんだり、貧乏ゆすりをしたり、

頭を掻いたり、あごをなでたり、なくて七癖、

ひとには無意識でしてしまう行為があるものだ。

じぶんでじぶんのからだの一部にふれるという

行為はじぶんの肉体的な再確認にほかならない。

じぶんという存在を、たとえば、腫れたにきびをさわって、

のびたひげをなでて、目をこすって、

ゆれる股の感覚をかんじて、鉛筆を器用にくるくるまわして、

確認するのである。このじぶんを確認する

無意識な行為こそ自己愛のあらわれなのである。

自己愛の表出方法はひとそれぞれ、まちまちであるが、

きまってじぶんのからだにふれているのだ。

 ちなみ無意識はフロイトというひとの発見である。

 

 じつは、肉体的な方面ばかりでなく、

日常の言語活動においてもひとは自己愛を表出している。

話す途中とちゅう、語尾があがるひと。

語尾をなんとなくあげ、わたしは、だからぁ、

また、語尾をあげ、そのときに申し上げたことはぁ、

また、語尾があがり、それじゃ許されないことでぇ、

なんて話は進行してゆく。

この語尾上げ会話こそ自己愛なのである。

語尾をあげているとき、

じぶんの声の余韻をじぶんの耳で確認しているのだ。

いま、わたしはしゃべっている、

それもまあまあかっこいいことをしゃべっているのよ、

いいこと、わたしが目の前のひとにわたしの主張を提示している、

ほら、わたしの前にいるひともうなずきながら聴いているじゃない、

こんな確認をしている。その確認にはいささかの時間を

要するわけで、それを「間」と呼ぶ。

 

センテンス途中の語尾あげのいっしゅんの間、

あれである。だから、ナルシスの水仙たちの

日常会話はみんな語尾があがっている。

そうして、水仙たちはみなことごとくその瞬間、

うっとりしているのだ。そんな自己愛の図式があるから

聴いている側にはこちらもことごとくみなおなじ感情がわいているのだ。

 不快感である。