コンサートで演奏が終了するやいなや、
ブラボーっと大声で叫ぶひとがいる。
おまけに手のひらをへこませてやたら
大きな音をたてて拍手までしたり。
成駒屋って感じだ。ああいうたぐいのひとっていうのは、
よほど音楽に精通していないと、
かけ声はかけられないのであって、
たとえば、第三楽章のおわりくらいに、
拍手をしてしまって顔から火がでるくらい
恥ずかしいおもいするということもある。
とはいっても、ブラボー男はほんとうに
音楽を理解しているのか、
すこぶるあやしい。ただ、音羽屋、
かけ声をかけるためにじっと待っているんじゃないだろうか。
ある対象を賞賛するというのは、
じぶんじしんに相当の理解力が
なければならないのは自明のことだ。
目利きがよくなければ絵画の価値もわからないし、
骨董の値踏みもできない、
書のたしなみがなければ作品の奥行きも評せないし、
読解力がなければすぐれた小説のよさだってわからない。
つまり、ひとを尊敬する、あるいはものを誉める、
という行為は、
じぶんがひとから誉められ尊敬されてじゅうぶんな
資質のあるひとの特権なのである。
ある教授の授業がすばらしいと
学生が絶賛すれば、絶賛する学生に教授の才能を
理解することのできる思考回路が
あったということにほかならない。
そんな図式を意識レベルではどうかわからないが、
その学生は、少なくとも感づいているはずだ。
ひとを尊敬するということが、
つまりは、尊敬できるじぶんの存在をじぶんで
確認する行為なのだということを。
もっといえば、尊敬できた、ということを、である。
だから、ひとを尊敬する、あるいは、
尊敬できたという行為は、おのず、
ナルシスな快感をともなうものなのである。
先生の授業はわかりやすい、
と、もし世の先生が生徒から言われたら、
手放しで喜ぶのではなく、
いや、きみに理解力があったということだよ、
と生徒を誉めるべきなのだ。
先生のおかげで成績があがりました、と言われたら、
わたしのおかげではなく、
じぶんのなかに潜在的にあった能力が開花しただけだよ、
と言うべきなのだ。