虹は五色だというヨーロッパの国がある、
というのは有名なはなしで、
これは数年前から国語界でも話題になってることなのだが、
なんで五色なのか、ちなみに我われの常識は七色ですよ、
念のため、かんたんにいうと見えないのである。
我われには見える七色が識別できないのである。
たしか、ひとつは赤と黄色の中間の色が
存在しなかったとおもう。
ことばが存在しないっていうことは
その実体も存在しないということで、
たとえば、だいだい色は赤か黄色の範疇に含まれるので、
だいだい色はその国では認知されていないということになる。
ことばにはそんなちからがあって、
ことばがあるから存在するものもある。
英語圏のひとは肩こりがないそうだが、
あれは肩こりという英語がないからで、
日本に来たアメリカのひとが肩こりということばを覚えた瞬間、
肩をとんとんやっていた、なんてはなしもある。
花に興味ないひとはみんな花っていっておけばいいし、
やはり、興味のあるひとにはリンドウもイヌノフグリも必要なのである。
つまり、ことばが社会で認知されると、
そのことばに含まれる現象も認知されるわけで、
たとえば、マスコミあたりからいわれだした
「きれる」なんていうのもそう。「きれる」にいまじゃ、
「マジ切れ」「逆ぎれ」なんてのもある。
さいしょ「マジ切れ」って聞いたときは金物屋で
売っているものかとおもっていたけれど。
ともかく「きれる」ということばがあるから、
へいきで逆上するひとが増えたんですよ。なければ我慢したかもしれないのに。
いじめもそうで、われわれの世代は
いじめられっこはいたけれど、
いじめはなかったのだ。
文部省、いまなんだっけ、文部科学省? で、
「いじめ」ということばの使用を禁止し、
使用したものには懲役、なんてことにしたら、
ひょっとするといじめはなくなるかもしれない。
であるから、ことばというのは慎重にあつかわなければならないというはなし。
ところで、我われの青年時代には、
セクハラやストーカーなんてことばはなかった。
いい時代だったな。