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話す

 教卓という便利なものを発明したのはだれなのだろう、

立ちながら使える設計で、教科書を置いたり、

出欠席をとるのに都合がいい。

演説ぶって両手をこの教卓につきひじを張り張り

講義される方もいる。

ところが、じっさいほとんどの教員の経験していないのが、

教卓のない教室である。教卓のない教室では、

先生というものすこぶる居心地が悪い。

おまけに、そこに一〇〇人くらい生徒がいたらどうなるか。

 

 つまり教卓は、単身生徒と向かいあう先生にとって、

我が身を守る楯のような役割をはたしているのである。

肩に力をいれて、まるで教卓をじぶんの一部、

モビルスーツのようにして活用しているのである。

 

 ところで、言葉はコトダマ、言霊からうまれた。

言葉には魂がやどっているというむかしからの

日本の考え方である。その言霊を抛り投げて相手に伝える、

だから、話す、放す、漢字はちがっても

意味は同じなのである。波動拳って感じだ。

その言霊を抛り投げるのに必要なのは手、

手でしっかりと相手に我が魂を受け止めてもらおうとするのは

自然の摂理である。

ところが、教卓に両手をついていたら、

言霊は投げられない、聴く側受け手にもただ動く口と声とで

情報を得ようとするのは限界があるというものだ。

話のプロはしゃべるときに手を使う。

それも、右手を使えば男性的に、

左手を使えば女性的になるという。

国会議員がテレビ討論会などで右のこぶしをふりあげ、

甲論オツバク、チェーンソーみたいな声で演説しているのも、

それなりに理由があったのである。

 

 わたしは、どの業界のひとでも手振りをしないひとの話には

耳を貸さないことにしている。いろいろスピーチを聴くが、

まず、両手をイグアナみたいにしっかりと演台につき

「えー」とやるひとにろくなのがいない。

 

 そこで、提案、教室から教卓をはずそう。

そして、ほんとのひとりの教員として生徒と対峙、

向きあってみよう。教室の唯一の味方、

教卓がないというのは補助輪のない

自転車みたいでさいしょは不安だらけ、

が、そのうち、からだ全体で話し始めているじぶんに

気づくにちがいない。

 

 やはり話しかた論という単位が

教職課程に必修なのではないだろうか。