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愛せない日本人

 国字というのは、日本製の漢字である。

峠とか辻とか榊や畑、なんていう字。

日本で発明した文字である。

だから本場中国のネイティブは読めないのである。

たしかに山へんに上下なんていうのは作られたって感じだ。

だいたい中国もしっかりしてもらわないとほとんど

簡体字になっちゃって、ネイティブが漢字を捨てたのに、

なんで日本人が一七〇〇年も前からあきもせずこの文字を受けついで、

年端もゆかない少年少女に漢字書き取りなんか

させたりしなきゃいけないのか。融通がきかないのかね。

沢田が澤田だろうと、

そんな旧字新字のちがいにこだわるどころか、

本国では漢字が消滅しかけているんだよ。

 

漢字が輸入される前の日本人には文字がなかったのだが、

ことばはあったらしい。それがいわゆるやまとことばである。

やまとことばを漢字にあてはめたのを訓読みという。

訓読みの歴史は、輸入された文字と発音、

ゆえに発音にはおのず意味はない、

そこにやまとことばをあてはめてゆくというエンエン

気の遠くなる作業の繰り返しであった。

高は、コウ、低は、テイ、高は、われわれの言語では、

「たかい」に相当するようだ。低は「ひくい」だな、

こんな事情である。

よって、訓読みをつけられないことばもとうぜんある。

たとえば、ひとつは絵、カイもエも音読み、

ひとつは番、ひとつは愛。とくにこの愛が問題で、

訓読みがないということは、

はるか太古からわれわれの精神活動には

存在しなかったカテゴリーなのである。

つまり、あくまで愛は外国語、日本人は愛という言葉を持っておらず、

愛という概念はなかったのだ。

もっと言うと、いとしい、すきだ、いつくしむ、

なきだしたくなるほど恋しい、

こんな感情はわれわれのDNAのチップには

ちゃんとうめこまれているけれど、

こと「愛している」という領域は、

遺伝子レベルで認識されずに、

外来語としての理論のオプション、

あとづけなのであって、感覚的にしっくりこないのが

卑弥呼の末裔の宿命なのであった。

日本語に愛の訳語はない、

ぼく、きみをラブしてるんだ、とおなじ言いかたなのだ。

へんでしょ、日本人固有の奥深さをまったく具有していない。

愛しているよ、ときゅうに言われて照れちゃうのは

そのへんの事情によるのだ。ま、「愛する」とサ変動詞をつけるのは、

外来語を和語として使いやすくする常套手段なのだが、

ぎゃくに言えば、サ変をつけるのは「愛」が外来語であるという

意識のあらわれなのである。おとなり中国では

「我愛你」(ウー・アイ・ニィ)といえば

「I love you」のことで、

文構造までいっしょなのだが、

ちゃんと愛という意識がある。

中国の町中で「我愛你、我愛你」なんて言いながら歩

き回っていたら逮捕されちゃうぞ。

 

身近でよく「愛」「愛する」ということばを耳にする、

が、愛することを真似することはできても、

ほんとは、日本人はひとを愛せないのである。