しつけの丁寧語が、おしつけ、だとおもっている。
ある程度こどものうちからちゃんと社会にでたときに
みなさまのご迷惑にならないようにと、教えこむものだとおもっている。
いつからだろうか、平気でみちばたに唾をはくようになったのは。
ガムをすてるのは。ま、唾をはくから「ツバキ」っていうんだけど。
電車のなかでマックをほおばったり、
たばこを投げ捨てたり、ひじをついて食事したり、
あるいは立て膝で食事したり、いるいる。いやになるね。
ああいう輩は、こどものときになんにも
教わってなかったんだろう。
なにが、いけないことかわからないのだ。
マナーは法的拘束力がないからわからないのかもしれない。
あるひとが言っていたが、
しつけとは、してはいけないことを教えるのでなく、
していいことだけを教えればいいのだ、と。
なるほど、そのとおりで、そういうひとには
「・・してはいけない」という語彙がないのである。
このへんは教育の急所の部分で、
言いようひとつで人間の性格や未来が変わってゆくかもしれないのである。
電車の床で座ることなどのないように、という言い方、
電車ではいすにちゃんと腰掛けるように、という言い方、
言い方はちがっても言っていることは同じだ。
けれども「・・ことのないように」調の注意は
はるかに言いやすいのである。
言いやすいいいかた、禁止口調は、
こどもの精神を抑制してゆく、
抑制されたこどもは萎縮する。
萎縮した子に精神的闊達さはない、
自由な発想が停止する、と悪循環の
輪廻がエンエンつづくのである。
おびえるこどもの前に軍人が銃で構えているような図式だ
。
もっとおそろしいことは、たとえば、
人を殺してはいけないよって教え続ければ、
たしかに、殺すことはなくなるかもしれない、
が、まっさらなこどもの心に、
人を殺すという社会現象を植え付けることになるという事実だ。
ちいさいうちから、殺人を教えることはないだろう。
ぎゃくに、人にはいつも優しく接することが大切だよなんて
教えてゆけば、殺人という現象を潜在的に意識などせずに、
優しい人物になってゆくのである。
つまりは、おしつけがましいしつけでいいが、
ことばのもつおそろしい力を理解し、
いいかたには気を配れというはなしである。