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ディレクターズカットの功罪

 ディレクターズカット版といってすぐ思い出すのは、

エクソシスト。古い?

 監督が何キロメートルとある長いテープを

ちょきちょき切って二時間数分にまとめるのが

映画のあたりまえの作り方なのであるが、

ディレクターが編集する映画もある。

吉田拓郎が作曲して、ある歌手が歌う、

が、あんまりにも歌が気に入ったのか、

あるいは、気に入らなかったのか、

じぶんでもその歌を歌うということがあった。

猫というグループの「雪」は、

本家はこう歌いますってコンサートで歌っていたから、

猫にはやや不満ってところか。

 

ま、ディレクターが再編集する映画なのだから、

こちらのばあいはどうも、やや不満の部分があったに違いない。

だから、わたしが以前見た、エクソシストとどのへんがちがうのかを

よくよく考えてみれば、おのずディレクターの意図するところが

明確になってくるはずだ。エクソシストはいまからやく

五十年前に作られたホラー映画のはしりみたいな映画で、

わたしは父と渋谷で見た。なぜ五十年前に父と見たかなど

はっきりと断定できるのかといえば、

父とふたりで映画をみたのは、あれが最初で最後だったからだし、

それ以来、父とふたりで出かけたことは金輪際なかったからだ。

そのときは、あいにくうるさい席でうしろの学生風のやつらが、

あれ、マイナス二十度のなかで撮ってるんだぜ、

いま、こうこうこうなるぜ、

うしろで解説してくれていて、

字幕を見ながら、うしろの解説を聞きながらの鑑賞だったから、

ちょっと没頭できなかったような思い出がある。

が、ぞっとした記憶ももちろんある。

 

 今回のエクソシストを見て、懐かしくも思ったが、

子供のころに心の底から感じた恐怖や重々しさはなく、

あっさりと筋がながれていってしまったように感じたのは事実である。

むかしのエクソシストとちがっていた箇所は、

ブリッヂで階段をするする降りてくるところ。

そりゃ、悪魔が乗り移ってぼろぼろになっている

少女がブリッヂで猛スピードで降りてくりゃ、

気味悪いや。で、そこの部分がこの映画のウリだったんだろ、

宣伝でもそのシーンが使われていた。

つまり、ディレクターにしたら、

監督なんでこんなおもしろいシーンを捨ててしまったんですか、

という切なる思いを何十年と抱き続けていたということである。

だが、逆に、監督はすでに五十年前、

この部分を撮影しておきながらなぜここを切り捨てたのか、

それを考えるべきだ。

 

 私見だが、エクソシストのおそろしさは、

少女の部屋に限定されていた、というところなのだ。

ドアをあけるとそこは悪魔の巣窟、部屋を出れば日常の家、

そういう地獄絵と平和がひとつの家のなかで対立的に

配置されていたのだ。もっといえば、悪魔の乗り移った少女は

部屋を一歩も出なかったのだ。

それが、今回のリニューアルでは、

ブリッヂでひょこひょこ出て来ちゃうわけで、

それが許容されるなら、また、次の日もでてきちゃうかもしれない、

ひょっとすると、イギリスの街中をブリッヂで

歩き回ってしまうかもしれないじゃないか、

そして、そんな子がうようよいたらそれこそ

収集がつかない。たいへんですよ、

捕獲に。粘着テープの化け物見たいのを街中にでも置かないと。

 

 今回のディレクターズカット版は失敗であった。

監督が通してきた一本の筋道をあっさりとりはずして、

奇異なあるいは評判のあがりそうなシーンを

増やすという、テーマよりも興行収入だけを

考えたあさはかな図式がみえてしまった。

 

ところで、今回の映画が子供のときに抱いた

恐怖より薄らいでいたのは、この五十年間のあいだにわたしは

もっと恐ろしい体験をたくさん見たり

聞いたりしたっていうことなのだ。

 

それはべつにホラーにかぎらない。