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三流国になるために

 なぜ、いい学校に行かなくてならないか、

という問いを、親、あるいは学生に問えば、

「いい生活をしたいから」と答える、これ、とうぜんである。

じゃ、いい生活って何と問えば、

いい企業に入り、よりよい収入を得ることだと答える。

至極、とうぜんである。

つまり、到着地点が、よりよい収入を得て、となりのひとより、

よい生活をすることなのである。

そのためにはお金が必要であり、お金さえあれば

ひとは幸福になるという考量である。

はい、それがわるいことではけっしてない。

 

貨幣が力をつけた社会では人間が貨幣に膝まづくしか

なくなるとモーゼス・ヘスは述べているが、

まさしくそのとおりの社会が現前しているわけで、

その価値観を否定する気はもうとうない。

 

ただ、ミッシェル・フーコーが言うように

価値観はひとつではなく、理性の思い上がりが

価値観をひとつにしていったという事実もぬぐいされない。

 

ざんねんながら資本主義システムというモノは、

価値観を一定にし、けっきょく個人の価値観をデリートさせ、

われわれに、金されあれば幸せになると

徹底的に刷り込ませる装置となってしまった。

 

 千倉でポピーを栽培することや、

大間でマグロを釣ることが至高の幸せなど、

だれしもおもわない世の中なのだ。

 

ほんとうは、その人にとっては

ポピー栽培やマグロ漁師が夢だったとしても。

 

 つまり、資本主義は、じぶんの望みより、

どのポジションを取るのがより幸せなのかを

教えてきたのである。

 

 よりよい大学、よりよい企業、

課長より部長、部長より重役。

 

 それって、じぶんのじぶんなりの夢だったのか、

と問えば、いいじゃん、じぶんのことより、

社会のなかのどの位置を確保するほうが大事じゃんって

だれしもおもうようになってしまったのだ。

 

だから、資本主義は座席取りだといってもまちがいないことだ。

 

そして、いまの世の中のひとは、こんなに貧困の差があっても、

このシステムだけは壊したくないとおもっている。

 

このシステムが崩壊しないかぎり、

わが子には受験をさせることに世の親は

なんの疑いももたずにすむからである。

 

いまの親は、逆算で子どもを育てている。

たくさんお金がとれるにはどうしたらよいか、

子の未来の着地点はそこにある。

 

そのためには勉強しかない。

 

ぼく、大工になりたいんだよって、

そんな子供はまず皆無と言っていい。

(いま、新卒のサラリーマンより、内装の大工のほうがよほど

給金がいいのにね)

 

 だから、このシステムさえ永続すれば、

個人的な考量などなくてもよいのである。

このシステムの潮流にのってさえいれば、

個別的な価値観をもたなくてよいのである

くどいようだが、いい学校、いい就職、たくさんのお金、

それだけだ。

これは、ある意味、思考停止なのである。

 

その思考停止、逆算の人生に欠落しているものは

「夢」である。

 

「夢」には二種類あって、

社会の到達地点、一定の価値観のもとの「夢」なのか、

みずからが抱いた、だれにもじゃまされない「夢」なのか、

という二項対立、アンチノミーである。

 

フーコーは、価値観のきまった世の中を「監獄理論」となづけたが、

それは社会から監視されている世の中をいう。

 

世の中から知らず監視されているから

みなおんなじ考えになるという言説である。

 

 それこそが思考停止の元凶なのだが、

それになるべく気づかないようにわれわれは生きている。

だれだって、わたしバカです、とはおもいたくないから。

 

 資本主義システムを温存するという

思考の停止は、じつは全体主義の入口でもあるわけで、

こんな時代にカリスマが現れたら、

ひょっとするとわれわれはその人に寄り添ってしまうかもしれない。

 

中丸伸二というひとが都知事選挙に落選したが、

あのひとに、すこしカリスマ性があったのだろう、

落選ながら蓮舫をぬいて二位であった。

 

これって、世の中すこし変わるかなって

都民の何人かはそうおもったあらわれなのだろう。

 

ただ、産業構造改革には、痛みがともなうので、

いまのままがいいじゃんっていうひとが多数なのだ。

 

それだから、自民党という政党は、

原発推進、憲法改正、いろいろ政策をうちあげるが、

そのほとんどを国民はノーと突き付けているが、

なぜ、いまだに与党でいられるのか、といえば、

このシステムを保持してくれるのは自民党だけだからである。

 

自民党が政権をまもってくれさえすれば、

われわれは、個人的な価値観を構築することを

しなくてすむのである。

 

いい生活、いい就職、いい大学、いい高校、

それさえ祈っていればよいのである。

 

そうやってわれわれは

構造的に三流国の歴史をくだってゆくのである。