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ボランティア活動の矛盾

ボランティアを辞書でひく、

無料奉仕で何かに参加する人、とある。

あんまり上手な説明ではないね、何かってなんだよ、

あいまいだなあ。ま、辞書への文句はまたべつの機会にして、

はじめてわたしが気づいたことは、ティアがつくから、

ボランティアって人間をさすことばであったということ。

ボクサー活動、ダンサー活動、ウェーター活動、

力士活動といった表現と同じ。へんじゃない。

 

 へんついでに、いまこのボランティア活動が

大学の入試に加点されるということである。

へんでしょ。そもそも無料の奉仕が美しいのであって、

けして見返りを期待しないということがボランティアの命、

ボランティアか否かの線引きは、ただ一点、

ここの事情に関わるものではないか。おおいなる矛盾である。

 

なのになんで入試の評価につながるのだろう。

評価というのはまさしく代償ではないか。ましてや、

課題などにするのももってのほか、

課題にすればおのずなんらかの評価をしなくてはならないから。

もし、ボランティアのすばらしさを教えたいなら、

教員という立場や入試、授業というシステムを

すてなくてはならないはずだ。もしそうでないなら、

たんなるおせっかいだよ。

 

さて、わたしがもんだいにしたいのは、そればかりでなく、

ボラティア活動によって有能感をあじわっていいのだろうか、

というところである。

 

ああ、すっかり気持ちよくなった、するほうも

されるほうもそういう気持ちになれば、

それはそれでいいのだが、

はたして無償報酬に有能感が付随してよいものか。

 

 だから、わたしは生徒に言うのだ。

自己推薦文に

「わたしはボランティア活動をしてまいりましたが、

それをここに書くとなれば、それはすでに矛盾であって、

ボランティアの生命が絶たれることになりますので、

この欄には書けません」

 

な、こんなふうに書いてみたらどうか?

 

そういうと、まず異口同音

「せんせい、そんなこと書いたら落ちますよ」って。

 

ふーん、きみたちは落ちることはわかっても、

受かることはわかんないだねー。

 

それは、それとして、この有能感のはなし、

たぶん、そんな気持ちがあっても

それを無意識の部屋にとじこめるのだろうか、

それがすなおな心の持ちようなのかもしれないな。

 

そもそも、ボランティアなどという言葉があるということは、

ひとは、無償でだれかのためになにかする、

ってことをするわけない、という前段があるから

ということも忘れてはならないだろう。

 

 ま、これからは無償奉仕と自己満足とのかねあいとか、

価値観とか、ボランティアの限界と意義とか、

いろいろ議論はつきないことだろう。

 

 

そのうちに職業にボランティアななんてのも

生まれるかもしれないね。