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バス通勤

ずいぶん前のはなしである。わたしが高校の教師をしていたころ。

そのころわたしはバスで通勤していた。

きょうは前の席に清楚な、ほとんど化粧もしていない

美しい二十歳そこそこの女性が座ってきた。

うすいピンクのブラウス、髪はたばねて、

オードリーヘップバーンよろしくポニーテールだ。

そこに同僚のT先生が乗り込んできて、

挨拶をしようと見上げているわたしには

目もくれずにT先生はオードリーを横目で追いながら

うしろの方へ座っていった。あのまじめな、

ほんとは違うかもしれないが、

T先生がわたしに気づかないほど、ローマの休日は魅力的だったわけだ。

 

バスが動いて、わたしは現代文の問題を眺めていると、

そのポニーのさきっぽが、なんと、

わたしの指にさらっと接触してくるのだ。

なんだかロリータのハンバートのような気になり、

わたしの想像力は躍動しはじめた。

 

乗り込むときにバスの運行表を見ていたから、

彼女はこの路線には不慣れなのだ。

取り出したノートに上菅田云々と書いてあるところから、

このへん中心に仕事しているのだろう。

もちろん学生ではない。まだ、

歳は大学3年生くらいだから、

専門学校か短大卒、で、ノートを後ろからちらっとのぞくと

一日のタイムスケジュールなんて書いてあるから、

たぶんヘルパー、介護そのような仕事ではないか。

だいいちあれだけきれいに爪が切られているのは

その裏付けになる。金にゆとりはない。

ブランド品はつけておらず、

色白でどうみても遊んでいるようには見えないが、

耳が比較的ちいさいからひとなみの幸福論で

満足するタイプのはず。まじめな子特有の

オーラが出ていて、だから、包容力のある、

じぶんの生き方をもっている人にあこがれるのだ。

 

わたしがわかる範囲の状況証拠を固めているところ、

にわかに携帯が振動した。

車内だがしかたなく問題集を顔にあてがって出る。

妻の声だった。

 

ねえ、息子の自転車の鍵、どうした。

 

え、あぁ、つけっばなしだよ。たぶん。

 

つけっぱなし、わかった。

 

ちいさな声で返答し終え、

わたしはまたもとの状況にもどされた。

 

ところが、どうしたことか、

いままでのあの自由ですがすがしい

官能がさっと潮がひいたように

さっぱりなくなっているではないか。

 

妻の声というものは

亭主をことごとく現実に引きずり戻す装置であった。