日常的にグローバル化がすすむなか、
その反面、各地の特徴的な「もの」、
つまり文化の多様性が失われつつあるという二律背反、
アンチノミーは避けられない。
そのグローバル化によって多国籍企業の参入、
アグリビジネスの参入による社会変革も問題である。
また、環境問題や経済問題も深刻だ。
このような近代産業社会のシステムが抱える諸矛盾が
うまれているなかに、それとどう対峙してゆくかが
今後の課題といえよう。つまり、経済的観点からだけでなく
社会学的観点からの考量も必要とされている。
ようするに歴史的、文化的、構造的な方面からも対策を
講じなければならないということである。
農業・食料社会学の急所は、
グロバリゼーションや多国籍企業がもたらす影響、
あるいは、あらたな農業技術のもたらす影響、
代替的食料ネットワークの形成、
企画基準によるサプライチェーン、つまり供給プロセスの再編などが挙げられる。
まず、アグリビジネスに対抗するためには、
地域の活性化が重要で、地域ブランドの見直しや、
その本質性・真正性の再検討がひつようだろう。
また、地域内においても、農業・畜産・生ごみなどの事例に
たいして環境や持続性、生命、循環などの観点の再構築をめざし、
また、山間部の農の営み、女性、
あるいは人びとの交流の場に留意し、
豊かな意味空間や新たな関係性の可能性についての
再構築がのぞまれるところである。
また、消費者の選択の重要性も考慮しなくてはならず、
人間の食行動にたいする意識には、
内向きの身体にむかう方向と、
外向きの自然・社会環境にむかう方向があり、
ことわが国は、安全性や健康面にたいする内向きシンボルへの
関心が高いわりに、倫理につながるシンボルの普及に
とぼしいという課題があり、倫理的食行動をうながす方向性が吟味されている。
つまり、エシカル消費といって、消費者が食生活をするにおいて、
どれだけ社会によい影響をおよぼすかをかんがえたり、
その課題にとりくむ業者を応援したりするという仕方
「倫理的食行動」をうながすことが重要である。
さて、持続可能な十七の項目、
SDGsが叫ばれている昨今、食文化の関係からは、
「貧困」と「飢餓」あるいは「食品ロス」がもんだいとなろう。
そのためには、フードテックとしての技術革新をめざし、
雇用問題を解決させながら国家としても個人、
つまりオープンイノベーションの枠組みとしてもとりくむひつようがあろう。
世界人口の増加にともない、
食糧危機への対応がせまられている世の中であるが、
フードテックは、生産、加工、流通、調理、消費などの
食文化の新たなビジネスモデルを支える技術であり、
食糧危機への足掛かりとなるだろう。
ただ、ざんねんながらわが国はフードテックに対する関心が
うすく米国の一パーセントほどの予算しか
計上されていないのが現状である。
フードテックとして、まず、食品の生産、
開発分野で導入され、栄養バランスよく配合した完全食や、
代替肉の開発などがあげられる。もちろん「ヘルスケア」の分野とも綿密である。
フードテックの具体例として、
ひとつは「ミラクルミート」のような大豆食品の開発、
昆虫のお菓子、盛り付けロボットのような調理ロボット、
水産代替飼料の開発、などが挙げられる。
そのためには食についての多様で深い理解を意味する
「フードリテラシー」という考え方が、
注目されている。前述の人口増加による食糧危機、
気候変動による不作、人材不足などの問題を抱えるなか、
安定した食糧生産をめざさなくてはならない。
また、そのためにフードリテラシーを各人がもつことも重要だ。
フードリテラシーは、単に栄養の知識だけでなく、
食物がどこから来るのかを知ったり、
食物を選び調理する能力や、
食事ガイドラインに適合した食事をする能力までを理解したりする、
スキルや行動も含むものと考えられる。
また、雇用問題にもかかわるが、
スマート調理家電の導入や、調理ロボットなどの導入も看過できない。
あるいは、冷凍保存の技術の進歩も見逃せない。
質のいい食品を提供できる反面、いままで魚類を好まなかった
外国にも新鮮な魚が供給されるようになり、
ぎゃくに日本国内に魚類の提供が希薄になっているという
現状も考量しなくてはならないだろう。
SDGsとのかかわりでは、飢餓をゼロに、
すべての人に健康と福祉を、という問題がのこる。
また、「つくる責任、つかう責任」という食品ロスも研究対象である。
そのうえ、食料生産にともなう環境負荷の低減も目標となる。
とくに日本ではフードリテラシーの研究が遅れており、
欧米なみにその研究がすすむことをねがうものである。
SDGsとフードテックのかかわりはこのように多岐にわたって存在するのである。
じっさいに、道具をつかっていらい
人間は地球の外側で暮らしているという考量がある。
それは、永久に残る廃棄物を出すとか、
また、ほかのすべての動物とちがい、
ことごとく自然回帰できない存在だからである。
その点、諸動物や植物は地球の内側で生きていて、
自然のなかに込みこまれている。
われわれは、外側から地球を眺めることは容易だが、
やはり、食文化をかんがえるうえで地球の内側から考量するという
精神がひつようではないだろうか。
ひとには、それぞれの価値観の相違があるから、
つまりクオリアの体験質におよべば、
なにが正しく、なにが間違っているのか、
それを判断するのをむつかしい。
となりのひとが見ている夕焼けの色と、
じぶんの見ている夕焼けの色とがおなじがどうか
わからないという事情がクオリアの体験質の要諦なのだが、
その価値観の相対的なことを鑑みても、
つまりは、快適で幸福な生活をのぞむことには
全世界かわりはないはずである。
今のひとに「不幸ですか」と聞くと「いや、そうでもない」。
「では幸せですか」と聞くと、
やはり「そうでもない」と答える人が多いようである。
幸せとはなにか、という問いに、
いまの世の中の閉塞感をどう対処するかという
根本的な問いの答えが要求されるだろう。
システムが増大し、むしろ人間がノイズとなってしまい、
つまりシステムの奴隷となっているような現実に、
はたして幸せはあるのか、というラジカルな問いに答えてくれるひとはいない。
では、その荒涼とした世の中にすくなとも
食文化で補えるものがないか、
そういう一歩、一歩もひつようなのではないだろうか。