ずいぶん昔のはなしである。
北野武新作映画、ドールズが公開された。
専門家スジでは、難解な映画と、
どちらかといえば酷評にちかい。
日本の四季を表現するのなら、いままでにもあったことだし、
いまさら、それを刷り直しする必要はないのじゃないか、
北野武の理論は今回は読めない、そんな解説をする評論家もいた。
だいたい、映画評論家ほど、
ばかはいないとわたしはつねづね思っていたが、
ドールズを解読できない評論家ははやく転職したほうがいいね。
映画評論家はやたら監督の名前や、
その監督の歴代作品や、俳優の歩んできた映画の羅列にはくわしいくせに、
カンジンの中身についてはほとんど言及しない。
「アルマゲドン」のブルースウィルスとかね。
あれ意味ないような気がするが。
ドールズの主題は、日本の四季を表現しようとしたものでも、
映像のうつくしさを表現したものでも、
愛するふたりのあてのない旅路を表現したものでもなく、
究極の愛の抽象論なのである。
三通りの究極の抽象的な愛を表現しつつ、
その三通りがそっとリンクしていたり、
そういう下敷きをしけば、あの映画の主張は氷解する。
『羊をめぐる冒険』や『ダンス・ダンス・ダンス』の
羊男が読めるなら、その姿勢のままこの映画に接すればいい。
だから、ぎゃくに言えば、赤い糸にむすばれたふたりが、
どこでどうやって着替えたのか、とか、食事はどうしたのか、
とか、金がないんじゃないか、とか、
われわれがふだんかかわる具体的日常の道具立ては
すべてはずして考えないと、ドールズは見ていられないわけである。
映像は現実の写生、具象であったはずなのだが、
ことドールズにかぎっては、
風景がすべて抽象的描写に変換されている、
もし、わたしの論がまちがっていなければ、
この映画の手法はすこぶる新鮮で斬新であるということだ。
もちろん、武映画に底流する、
間の抜けた人の死、というメッセージはくずしていない。