弁当のおかずの中身といものは、
あんまり問題にならない。
母親がこさえた弁当、これが大事なことなのだ。
どんなあらくれ高校生にも、弁当をあけるときの楽しみ、
中に何が入ってるのかな、という期待と同時に
母親が詰めてくれている姿が脳裏をかすめる、
つまり感謝がある。べつに、言葉にだして、
お母さんありがとう、と言う必要はないし、
むしろ、言葉には出さない、
それが日本的なスキンシップなのだろう。
親子の愛情はそんな間接的なものでじゅうぶん、
弁当の蓋をあけるだけでも充足できるのだ。
その点、欧米はそうはゆかない。
言葉でちゃんと表現しないと、
たとえ親子でも通じ合わないのだ。
だから、いちいち、アイ・ラブ・ユーとかしょっちゅう
親子で言い合ったり、抱き合ったり。
日本的に言えば、とても不完全な親子関係である。
中身はどうでもよいと言ったけれど、
横浜崎陽軒のシウマイ弁当、
あのおかずはなかなかバランス良く、間然するところがない。
シウマイと卵焼き、からあげ、さかなの切り身、
かまぼこ、あんず、よくできている。
しかしながら、内容の見取り図を熟知しているだけに、
だれしも開ける楽しみがまったくないことと
蓮の煮物を卵焼きに変更してしまったことがたまにきず。
高崎のだるま弁当、あれはいけない。
いちどでいやになる。もうなにがはいっているのか
すっかり忘れてしまったが、
二度と食うまいとおもったことだけはおぼえている。
そうおもっていた帰りの高崎本線、
東京にむかってひとりで乗っていたとき、
がやがや大学生のボランティア風の男女が数名乗ってきて、
わたしのとなりのシートにはあぶれた青年ひとりが座った。
横二列の二人がけのシートのわたしが左側にひとり、
彼が右シートにひとりで乗っているという構図だ。
しばらくして、弁当売りが前方から来た、
「だるま弁当―、まいたけ弁当―」
お、まいたけ弁当があるではないか。
このまいたけ弁当は、中身がよいのだ。
まいたけの天ぷら、煮物、焼き物、酢の物とまいたけづくしで、
かつ、ご飯もまいたけご飯である。
値段も、だるまとおなじくらいだったとおもう。
わたしはそわそわした。このボランティア軍団が、
どんどんまいたけ弁当を注文しているからだ。
なくなっちゃうじゃないか。
いよいよ、わたしたちのシートに近づいたとき、
こともあろうに隣の青二才野郎がわたしとまったく同時に
「まいたけ弁当!」
異口同音、言うではないか。
わたしの声の方が音程は低かったから
ハモっているようだったが、
弁当屋のおじさんが、すまなそうに言った。
「すみません、まいたけ弁当ひとつしかないんですぅ」
この「ひとつしかないんですぅ」に
いちはやく反応したのはわたしのほうだった。
わたしは、すかさず、その坊主をわたしのもつ精一杯のエネルギーで、
波動砲の発射よろしくきぃっと睨みつけてやった。
と、
「あ、ぼく、だるま弁当でいいです」
この純朴な青年はじぶんの注文をすぐに訂正した。
「あ、いいんですか、すみません」
わたしは、いままでひんむいていた白目の顔から、
怒らない前の大魔人のような柔和な顔にもどしながら、
満面の笑みであいさつした。となりの好青年は、
「いいえ、いいえ」
と微笑しながら、だるま弁当の蓋をあけている。
勝った、わたしはおもった。イスカンダルは守られたのだ。
弱肉強食、悪いな青年、まずいだるま弁当で、
なんて心の中で同情しながら、
まいたけ弁当をつまんでいたところ、
また、べつの弁当屋がやってきた。
こんどは弁当屋の頭くらいの高さまで弁当が積んである。
その弁当屋はわたしたちの横を過ぎていった。
「まいたけ弁当―、まいたけ弁当―」