アンビバレント、という語がある。両面価値とか双価性と訳される、
つまり相反する感情が同時に存在することをいう。
このアンビバレントという複雑な精神状態の発想じたいは
近現代に発生したものだろうとおもわれる。
むかつくけれど愉快だなんて感情である。
風刺画などを見たときに、
社会に対して腹はたってもくすりと笑ってしまう、
あれだ。苦笑いなんかもその感情表出である。
三親等くらいの葬式など、
そりゃ、亡くなったものを悲しむが、
ひさしぶりに会ったいとこなんかと久闊を叙したり、
叔父さんとむかしぱなしに花が咲いたり、
悲しいけれど楽しい、というアンビバレンシな気持ちになるものだ。
ま、葬式など義理でゆくとほとんどなんの感情もわかないので、
ひどいときは、人間はセコイから、
もとをとろうと精進落としをたらふく平らげたりする。
なにがもとなのかよくわからないが、
ああいうときは煮物もおいしいんで、
ビールをがぶがぶやりながら鳥の唐揚げとか、
かわいちゃった寿司とかつまんでしまう。
もうすでに、タコと玉子しか残っていないではないか、
はやく代わりをもってこいよぉ、
などと首をながくして盃を重ねるものだから、
つぎの寿司桶が来るころにはけっこうできあがっていて、
うぃー、じゃ次はどこ行くかよ、
なんて友だちを夜の街にさそったりする。
すでにお通夜を一件目に入れているのである。
と、はなしがすっ飛んでしまったところで、
アンビバレンシである。近現代に発生したものとおもわれるけれど、
では初出の書物とか論文とか、
まったく知らないのでいつかは特定できないが、
蜻蛉日記、八世期後半の女流日記、
源氏物語よりも二十年くらい古い書物に、
こうこう・・・つらいけれど、こうこう・・・楽しみもある、
なんて三行くらいの文字数を費やし、
だらだらとアンビバレンシな感情を吐露するくだりがある。
そういう意味で平安時代でも、
じぶんの感情をヒスをまじえながらもちゃんと
書いているという事情に関しては、
蜻蛉日記は注目にじゅうぶんあたいする作品なのだが、
もし、平安人にアンビバレンシを述べさせるなら
かなり言葉数を要するという事実でもあった。
真空管のラジオってところか。
が、さいきんの不況の世の中をみていると、
高度資本主義とともにおそらく発達しただろう
アンビバレンシは文明の精神的進歩の象徴であったハズなのだが、
それもそろそろ退化がはじまってはいないだろうか。
ひととおりの感情でこと足りているのである。
年端もゆかない青年からジュースや
カップヌードル、文具や家庭科の教材、
しぼりとるだけしぼりとっている兄妹をみて、
苦笑している人々の顔はない。
苦々しいだけである。