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高橋寛

 YゼミナールとW塾で活躍していた英語の高橋寛先生は、

慶応大学を卒業以来、やく十年のキャリアをもっていた。

かれは、たしかパラグラフリーディングの

提唱者だとおもったが、いまの英語界の

趨勢をなしている解釈法である。

 

パラグラフリーディングの功罪については、

ここ数年論議があるが、たとえば、

小説には使えないとか、純粋な解釈ではない、

とか、結果論的だとか、基礎知識がないと役に立たないとか、

否定的なみかたもつよかったものの、

やはり、速読と内容把握には有効と見えて、

多くの先生が採用している。

 

 高橋寛は正しくは「ゆたか」と読む。

が、石丸寛(イシマルヒロシ)とおなじような運命をたどり、

おのず高橋寛は、タカハシカンと呼ばれていた。

なかまうちでは「かんちゃん」で通っていた。

 

 彼は、予備校きってのラーメンフリークで、

そのおびただしい知識と制覇した店の数を誇っていた。

ラーメンのことなら、かんちゃんだった。

だから、新横浜のラーメン博物館にも通いつめ、

そこで働いていた大学生のアルバイト学生とも親密になり、

交際もはじまった。

 

 かれは根っからの、まっすぐな性格、

熱血漢で、ご褒美に図書券なんかを配っている同僚の先生をみると、

抗議と談判をしに講師室にずかずかと出かけていったりもした。

西行法師の不勉強をたしなめに行った荒法師文覚みたいなものだ。

 

そのまっすぐさは、恋愛の方面でも発揮されていたから、

つきあっていた女性のために、

町田に一軒の家まで購入し、彼女の卒業をひたすら待っていたのである。

完璧な彼の未来予想図は彼の胸のうちにあたためられ

実地におよんでいたのである。

 

 が、運命はかんちゃんには、

順風満帆とはゆかず、

あるいは、一途すぎるかんちゃんの性格に

持ちこたえることができなかったのか、

その女子大生は別の男のもとに走ってしまった。

その男というのが、やはりラーメン博物館の社員で、

かんちゃんの友達、おまけに、肉まんみたいなやつだったのだ。

 

 かんちゃんは、肉まんとじぶんとの容姿の不等式を、

肉まんとじぶんとの偏差値の不等式を、

また、すべての人格でも式に乗せ、そして、おもった。

 

なぜ、ふられたのだ。そして、同時に怒りがこみ上げてきたのだった。

なぜ、あんなやつに。プ

ライドとほのかな幸せの設計図との二つを

ずたずたに破かれた彼は、柳に雪折れ無し、

そんな余裕もなく、ぽきりと音をたてて折れてしまったのだ。

かんちゃんは決意した。

 その子との心中である。

 

かんちゃんは、町田の金物屋で刃渡り

三十センチの刺身包丁を買い、

その日は、練馬のコンビニで早朝から働いている彼女を刺しに

電車に乗り込んだのである。ひとりの予備校講師が、

町田から練馬まで、ずいぶん遠いな、

いったいどの路線で行ったんだろう、

包丁を胸に隠して電車に揺られている風景は、

滑稽であると同時にせつない気にもなる。

 コンビニに着くや、かんちゃんは、

なにか訳のわからぬことを叫びつつそのまま下に飛び降りて、

闇の中に駆けだしていけば、

これは中島敦の『山月記』のフレーズになっちゃうが、

かれは、なにか訳のわからぬことを叫びつつ

そのまま包丁で刺そうと彼女に向かったのである。

 

ひと突きふた突き、正面から二回、逃げる背中に一回刺した。

衆人環視、お客のいる前での惨事である。

が、さいわい彼女の命には別状なく、

狂気に満ちた虎も、人々の手に押さえられて、事件は終結をむかえたのである。

 いまでは、もう、かんちゃんの話題も聞かなくなったが、

裁判では、まじめな性格を証言してもらおうと、

いろいろな先生に頼んだらしいが、

ひとりもそれに応じる先生はいなかったそうだ。

 

 仄聞するところ、かんちゃんは、

また予備校の教壇に立つことを夢みているらしい。

が、ひとびとは言う、その可能性は皆無だと。

口の悪い連中はつづけて言う、じゃ、名前を変えて教壇に立てばいい。

その名も「キラー・カーン」

 

 もうすこし同情的なひとたちは言う、

出所したら、ラーメン屋でもはじめればいいんだ。

その名も「キラカーンの数ヶ所ラーメン」