村上春樹が小説のなかで語っていたことだが、
現代の最大の美徳は、無駄である、と。
高度資本主義のころいっせいを風靡した彼は、
経済成長のなかではぐくまれ、
せいいっぱいの気取りと自信にみちた書きっぷりで
ファン層をひろめていったのである。
ま、いまでも村上の人気はゆるぎないものだから、
こんど出版される翻訳小説も出版以前から話題となっているが。
しかしながら、経済の低迷とモラルハザードの今世紀に、
最大の美徳が無駄であるという
彼の主張に説得力がなくなっていったことを感ぜざるを得ない。
どんなに景気が底冷えをしても、
家庭のいちばんさいごにきりつめるのは教育費らしいが、
その教育費も削らねばならない時代に突入しているのは
周知のことである。
では、二十一世紀のこの時代に求められているもの、
美徳とはなにか、私見ではあるが、
わたしは、不便、だとおもう。世の中を、
ことごとく不便にして、
人間のもっている底力を徐々に発揮させないと、
よりいっそう人間自体の抗体能力が弱まってゆくことになろう。
このままでは、便利すぎることで、
人間の本能的部位が殻をかぶったまま退化してゆくのを
われわれは手をこまねいて看過してしまうことになるのである。
江戸時代のビジョンが、やはり不便であった。
橋は造らない、荷馬車は作らない。
越すに越されぬ大井川、川を渡るのもすこぶる不便な世の中、
江戸時代の技術のなさに
すっかり卑下をする諸子もいるかとおもうが、
ほんとはちがうのだ。作れなかったのでなく作らなかったのだ。
お江戸日本橋、七つ立ち。歌にも、地名にもあるように、
日本橋という橋がちゃんとあるではないか。
浮世絵でも、太鼓橋をわたってゆく江戸庶民の絵が
残されているはずだ。技術は持ち合わせているのに、
わざと造らなかったのだ。不便にするために。
馬車がないのも、輸送機関を不便にすることで、
地方に力を蓄えないようにする三百年間にわたる
上層部の一貫した姿勢だったのだ。一揆を恐れたのである。
そのおかげをこうむって、
江戸三百年間のツケはたまりにたまり、
三百年間でGNPが一パーセントしか上がらなかったという
事情も世界の驚異だ。だから、鎖国の完成のころに生まれようと、
享保の改革のころに生まれようと、
あるいは、大政奉還のころでも、
あたりはなんの変化もしていなかった、
どの時代に、どう生まれ直してもきっと
違和感がなかったにちがいない。
わたしは、江戸時代を見習えとは言わないが、
この不便への道をたどることがたいせつだと
おもっている。ともかく、
いちばん身近なところから始めようではないか。
まず、携帯電話、あれは便利すぎる。
とりあえず、メール機能をはずすべきだ。
そして、時計の機能もはずす。電話帳機能もとりはずそう。
もちろん電卓も。それから、すこし本体じたい
軽すぎて小さすぎる。携帯電話はすくなくとも、
給食のときの揚げパンくらいの大きさがいい。
なんだったら、戦争中の無線、
ランドセルくらいのにしてもよい。
そこからかけるときは「チェックメイトキング2」とか
言ったりして。この大きさになればこっそりかばんに
しのばせてくる生徒も減るはずだ。
メール機能は別の機械を購入するのだ。
それもメールしかできない機械を作る。
もちろんキーボードは大きく、
かちゃかちゃ音のするものがベストである。
時計は腕時計をすればいい。電話帳は、
昔みたいに書くのだよ。どの家庭にあった五十音順にめくるやつ、
あれを携帯する。携帯電話ひとつとっても、
人間は、武装兵士みたいな装備を装着して、
外出しなくてはならなくなるから、
そこから、苦労とともに人間のもっていたはずの
底力みたいなものが、内耳の奥底の、
ブラックホールのようなところで
眠り続けていたところから、
よみがえってくるかもしれないのだ。
おまけに、さまざまな品物を買わなくては
ならないから景気もあがってくるだろうし、
だいいち、それは、あらたな人間の解放につながる。
われわれは、便利さのなかに束縛されて、
かえって不自由になっていることに気づいていない。
江戸時代の不便は景気を上昇させなかったが、
今世紀の不便は、
景気上昇のカンフル剤になること請け合いである。