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文章の存在理由

 文章の存在理由についてである。

文章というものはなんのために存在するかといえば、

ひとをすっかり感心させたり、

気持ちよくさせたりするためにある。

暴走族のらくがきを見て、

たまには血が踊り胸騒ぐやつはいるかもしれないが、

ふつうの神経だといらいらする。

アジテートのちらしなども感心しない。

なんとか絶対反対なんていうビラである。

宗教がらみの新聞なども目ざわりだ。

右翼車にぺたぺた貼ってあるシールなど寒気がする。

ともかく、ひとに嫌悪感をいだかせるものは

文章とはいわないのである。

が、言葉はだれにも書けるものだから、

一瞥しただけではその区別がわからない、

が、読書百編、じっくり読めばそれが文章か否かだれにもわかる。

つまり、カラオケで歌う天城越えおばさんも音楽だし、

モーツァルトのケッヘル31番も音楽だということだ。

物書きのプロというものは、

そのへんの事情をちゃんと理解しているから、

とにかく文の通りがすらすらと

ひどく読みやすいものになっている。

 

 ところが、いまの入試問題に出題されている作家? たちは

ことごとく物書きのアマチュアなのであって、

だから、すこぶる難解な文を書いてしまう。

つまり、へたなのである。歴史家であったり、

評論家であったり、言語学者や経済学者あるいは哲学者であったり、

経歴、学歴、業績ともに立派なのだが、

だからといって文章は一流とはいえない。

だいたい、こんなひとたちはこどものころから

すくなからず変人扱いされてじぶんの殻に閉じこもり、

ひとから文章とはいかなるものかなんてまったく教わらず、

せっせとおのれの世界を構築させていたに違いないのだから、

ひとりよがりの難解なものを書いてじぶんで

オナニーしているようなものなのだ。

その自慰行為に傍線がひかれ問題になっているんだから、

世の受験生もいい迷惑というよりほかない。

 

 名文というものは、たとえれば、

古池の池なのである。読者であるわれわれが一石を

投じたときに生まれる、あの波紋といい、

あたりの深閑とした風情とかその場の空気、

そういったものを感じさせてくれる空間、

それこそが芸術なのだ。これは、文だけに限らず、

どの分野でもおんなじであるが。

だから、あいだみつをの「つまずいたっていいじゃないか・・」などは詩でもなんでもない。

あれは、みつを先生じしんが石をもって、

ポイっとわれわれの心の池に抛り込んできているのだ。

われわれは、自分の心の池にできた波紋をみて、

みつを先生はすばらしい、と感心している。

あべこべなのである。

そのへんの図式をどうも世の人はわきまえていない。

 

 受験でも、名文を読ませて、

そこに傍線を引くようにしないと

ほんとうの国語とはいえないのである。

だいたい、大学入試の問題を作成しているひとに

国語専門のひとでないひとがほとんどだという

悲惨な現実もあるのだが、

こんな問題はどうであろう。 夏目漱石『坊ちゃん』の末尾である。

 

 だから清の墓は小日向の養源寺にある。

 

問、この文の含意を100字くらいで答えなさい。