朝、亀にえさをあげている。
亀も水槽の陸地のところまで、
ごそごそ乗り出してき、からだをのばして
わたしが与えるえさを待っている。
わたし以外の家の者にはああまではしないから、
わたしをきっと認知しているのだろう。
それにしても、ずいぶん大きくなったものだ。
お祭りでむすめが買ってきたときは、
風呂場のタイルくらいだったのが、
いまでは、小型の弁当箱くらいになった。
この亀にえさをやりながら、わたしはきょうはじめて
気づいてしまったのだ。四十年以上も生きながら、
こんな簡単な図が読めなかったとは。
それは、日本人的自我についてだ。
自我というのは、かんたんに言うと、
じぶんとはいかなる存在かという意識、なのであるが、
とくに、日本人的自我、農耕民族的自我の特徴は、
みずからが他者に照射した情報を他者に
反射させてみずからを確認する、という点にある。
つまり、キャッチボールなら、まず相手にボールを投げ、
相手から返ってきたボールの力加減によって、
じぶんの存在を確かめる、という構図である。
よく言われることは、日本人における、じぶんの呼び方、
一人称の豊富さがあげられるが、
これは、日本人は、相手によって、じぶんの呼び方の
使い分けをほとんど無意識に、あっさりしてしまっているわけで、
たとえば、子どもの前では、おとうさんは、
とじぶんを呼び、弟の前では、兄さんはね、と言い、
母親の前では、おれ、を使ったりする。
こういうじぶんの認知方法を、相対的自我とよぶのだが、
これこそが、農耕民が引きずる自我であって、
いっしゅんでも相手の存在が不明、
つまり、他者のはね返りがないばあいには、
仰向けにされて動けない文鳥のように、
なんにもできずにただもじもじしてしまうのだ。
西欧人に道などをネイティブな言語で訊かれると
フリーズしてしまうのはそのせいである。
このような事情が、アイデンティティとよばれているしくみなのである。
ようするに、日本人は相手、
二人称が確実に存在してじぶんが確かめられるのだから、
じぶんをよく写してくれるひとを友人や
恋人として選択するものなのだ。
気が置けない人物というものは、
だから、じぶんのアイデンティティの
充足にはかかせないひとで、そういうひとと
つきあうのはわれわれには必然の行為なのである。
ということは、相手を選ぶばあい、
人間よりも動物のほうがはるかに簡単である。
相手からのはねかえりが、ことごとく単純で、
おまけに従順だからである。ペットを飼う精神構造は、
西欧なら、狩猟民族特有の征服感などと密接に関わろうが、
日本は、まったく質が違う。ペットはじぶんの鏡なのだ。
それはとりもなおさず、
なんでも思いのままになるペットの前では、
じぶんがいちばん輝けるひとときをあじわえる、
すこぶる希少な時間なのだ。
つまり、じぶんへの充足感がペットを飼う行為として
発現しているのだから、
わたしは、一日にいちど、亀にえさを与えるときのみ、
輝くじぶんを実感していたのだ、ということになるではないか。
亀にえさをやりながら、
わたしはきょうはじめてこんな
簡単な図に気づいてしまったのだ。
しかし、そうおもうと、なんだかせつない。