「ソウル」という映画を見た。
日本映画につきものの、すじのあらさとおそまつな
内容はもちろん払拭できていなかったが、
ともかく韓国の倫理観を奉った筋になっているのは、
だれが見てもわかるだろう。
むかしから日本人は、
儒教思想はないものの、
道徳観のそなわった国民だったのであり、
過去の歴史をふりかえれば、
とくに明治維新以降の軍国主義下の国民感情は、
ほとんどファシズムと言ってよい時代のなかに、
それに順応した国民一致の価値観を具有していたはずである。
強国アメリカに対して、竹槍でも戦おうとした、
神の精神主義国家は強国だけによけいに
アメリカは日本にストレンジな、
不可解な感をいだかずにはいられなかった。
感情をあらわにしない笑い方に象徴される日本のスタンスを、
どうしても理解のおよばない存在として、
アメリカの驚異となったに違いない。
だから、あの笑い方を、ブッダスマイルと名付けて、
ある種の恐怖と違和感をアメリカ人はいだいたのである。
弱い犬ほどよくほえると言うが、
第二次世界大戦の相手が、ドイツとイタリアと日本なら、
イタリアはばかな国民だからあれはほっておいてもかまわないし、
ドイツに対しては、ゲルマン民族の血が彼らにも流れている分、
ドイツの痛みも理解は出来たが、
こと、日本人の不可思議さには、アメリカは閉口、
強国でいなければならないコンプレックスが
リトルボーイやファットマンの投下を決意させたのである。
犬がほえたのだ。
無条件降伏を余儀なく受けた
日本にアメリカがまずもちこんだのは、
じつは、このブッダスマイルの精神主義の破壊であった。
日本人の精神構造の根絶に、日本人の順応性は、
世界でも類をみないすこぶる優れたものだから、
その順応性がむしろアイロニカルに働いて、
むろん、日本人特有の劣等感もあいまって、
マッカーサーの指示どおりに国民全体が傾倒していったという
悲劇を演じてしまったのである。
つまり、アメリカがしたことは、
日本の街と一般人という物質や肉体を壊滅させたあとに、
こんどは日本人の精神を消滅させたのである。
もうすでに、戦後時代などという言葉も
死語となりつつある平成の世の中に、
電車の中でハンバーガーを食べている若者や、
灰皿のないところでも、目上の人の前でも、
隣でひとが食事しているときでも、
なんのためらいもなくたばこを吸うおろかものや、
ガムをそのまま路上にはきだすやつや、
ぐい飲み一杯分のつばや痰を道ばたに吐くやつや、
コンビニの食べかすをひとの自転車のかごにいれるやつや、
駅前にさっさと自転車を乗り捨てて通勤するサラリーマンなど、
いまでは、一億人のモラルハザードが蔓延してしまっている。
やく半世紀かけて、強国アメリカがめざした、
日本の骨抜きの構図がようやく完成を見たといってよい。
現在は、アメリカは自国の強さを誇示できれば満足で、
日本はハワイに次ぐ州であるという位置づけができれば満足である、
というところに落ち着いている。つまり、アメリカの言いなりである。
だから、マクドナルドというアメリカナイズドの
権化みたいな食べ物屋にわれわれはすっかり順応してしまって、
朝のバリューセットなんていうものに飛びついてしまうのだ。
朝のバリューセットは三六〇円、わたしは、
あの小判型のポテトの残骸が嫌いだから、
それを抜いて、つまり、ソーセージエッグマフィンと
コーヒーを単品で注文したら、
こともあろうに、三七〇円取られた。
なんで、ポテトを注文しないほうが一〇円も高いのだ。
むつかしく言うと不条理である。ラーメンが七〇〇円、
ラーメンと餃子セットだと六九〇円、
なんていう中華料理屋があるわけないだろう。
アメリカの手下みたいなマクドナルドは、
合衆国がわれわれにしてきた、
物質・肉体・精神の崩壊のあとを受け継いで、
いまや市場経済までもを侵そうとしているのではないかと
わたしは疑ってしまう。
わたしは、いまひそかに、たくらんでいるのだ。
朝のバリューセットを注文して三六〇円払い、
あの揚げたじゃがいものかすを握って、
えい、こんなもの食えるか、と罵声を飛ばしながら、
思い切りその場で地べたに捨ててしまうのだ。
どうだ。
だいいち、そのほうが一〇円安いし。