Menu

お得なアプリでクーポンGet!

店舗案内

理科の松本

理科の松本がこの学校を去ってもう35年になる。

かれには、とにかくひどいめにあわされた。

なにかのパンフレットを見ていたとき、松本は、

「あれ、この写真、点でできてるんだね」

と、さも興味深げにわたしに訊くから、

また、わたしも印刷に携わっていたものだから、

「そーですよ、こういう印刷はすべて

四色の網点からできているんです。

その四色の点をすこしずつずらして写真ができあがっているんです。

だから、専用の虫眼鏡でみるときれいに網点が確認できますよ」

「へー、そーなんですか」

「見てみるかい」

「おー、見せてくださいよ」

そんなはなしでほんのすこし得意じみていたわたしは、

机の中から校正用の虫眼鏡を取り出してすぐにかれのもとに、

「これをさ、ここに当てて見るとね、」

と、はなしながら戻ってみる、と、

松本はどこにもいない。

いま、さっき、おー、見せてくださいよ、と言っていた

この場所からすーっと姿を消していたのだ。

 

だまされた、わたしはそのときはじめて気づいた。

かれは印刷の網点の事情などとっくに知悉していたのだ。

あるいは、かいもく興味などなかったのだ。

ただ、かれは、わたしのほのかな優越感をもてあそび、

それにより、わたしの優越感は、そっくりこのうえもない羞恥心に、

たったひと切り介錯人に切られるように、

あっさりとすり替えられてしまったのである。

この水際立ったどんでんがえしの仕打ちは、

かれをうらむことを忘れ、

むしろうまくしてやられたという感心にかわっていた。

ついでに人間のはかなさまでも感じてしまったが。

ともかくも、かれのいたずらの急所は、

ひとのプライドや善意をじぶんの悪知恵でことごとくちゃかして、

おのれの優位性を示すところにあったのだ。

 

だから、かれと温泉に行ったときなど、

とても悲惨なおもいをわたしはした。

 

山梨かどこか、失念したが、

湯治場のようなひなびた温泉宿に松本家族と

旅行したことがあったが、その、ひなびた温泉には、

サウナも、バイブラ湯も、蒸し湯もない、

打たせ湯が二本、ほそい筋をひいてタイルにぴたぴた落ちているだけだった。

 

 比較的広い風呂には、松本とわたししかおらず、

湯気で充満しているのに、そこはひんやりとした

空間となっていた。松本は、先を競うように打たせ湯に向かった。

 

と、かれは「う、うー」と唸り、苦痛で顔をよじらせ、

動物のように四つん這いになりながら、

こちらに戻って来るではないか。

「おい、どうしたんだよ」

「痛っ、痛っ、痛いよ」

「えー、そんなに痛いのかい」

「痛いですよ。フタさんやってみな」

「ほんとかい、大げさじゃないのかあ。

そんなに痛い打たせ湯があるのかぁ」

「ま、とにかくやってみなよ」

言われるまま、わたしは、半信半疑、

松本とおんなじ湯に向かった。

三メートルくらい上の簡易ホースのようなものから

細い湯が落ち込んでくるこの打たせ湯は、

肩に心地よい刺激はあっても、

やっぱり松本がのたうち回るような激痛はまったくない。

「なんだよ、ちっとも痛くないぞ」

「もっと、しゃがむんですよ、もっと」

わたしは、言われるまま、静かにしゃがみこんだ。

「もっとしゃがむんですよ」

と、その刹那、きーんとした金属の冷たさが

わたしの尾てい骨に突き刺さり、

その激痛の信号は、重いかたまりとなってわたしの

尾てい骨から脊髄、脊髄からそのまま脳髄まで

いっきに登っていった。

わたしは立っていることができずに、

おもわず動物のように四つん這いになりながら、

「う、うー」と唸り、松本がつかっている湯まで這っていった。

後で見たら、打たせ湯の足下には、

長くのびたおおきな幅広の蛇口があって、

しゃがむとちょうどこの銀色の鉄塊が

尾てい骨にぐりっとくいこむようになっていたのだった。

「痛かったろ」

にやにやしながら松本が言った。

「痛い」

わたしは、ひとこと言うのがやっとだった。

理科の松本がこの学校を去ってもう35年になる。

かれには、とにかくひどいめにあわされた。