仕事柄、辞書のあつかいには
慎重にならざるを得ないのだが、
とくに、国語辞典の三省堂と古語辞典の岩波書店とにはちょっと
首をかしげてしまう。
辞書には、客観性が要求されるのだが、
この二者には、どうもそのへんの事情が欠落しているふしがある。
岩波古語辞典は、大野晋という、
学習院大学名誉教授が手がけたもので、
見出し語の語源が付記されている。
が、その見出し語の語源があやしいのである。
かんたんに言うとインチキなのである。
ちなみに語源が載せられている辞書は、
日本国語大辞典と大言海と岩波の古語辞典の三種類なのだが、
語源というものは、じつは、よくわからない、
という結論が学会の定説なのである。
古語辞典のはなしはともかく、
われわれが日常世話になるのは、
国語辞典のほうだから、三省堂についてちょっともの申すことにする。
辞書は三省堂、というキャッチフレーズが
人口にカイシャされているので、
すぐ、三省堂イコール辞書とおもいこんでいる
輩が多いのだが、まず、専門職でないかぎり、
あるいは、よほど批判精神の旺盛なひとでないかぎり、
国語関係では三省堂を使わないほうが無難である。
山田忠雄(やまだよしお)という国語学者になる
この辞書はすこぶる個人的見地に立った一方通行の辞書で、
山田文法という、学会のツマハジキにされた文法の提唱者は、
国語学界から、山田一家ともども、変人あつかいされているのであった。
では、ちょっと、山田忠雄編、三省堂「新明解国語辞典」を開いてみよう。
辞書では、右と左の説明がひどくやっかいなのであるが、
いま、ここに、小学館の「現代国語例解辞典」もあるので、
まず、小学館から見てみると、「『右』正面を南に向けたときの
西にあたる側。人体で通常、心臓のある方と反対の側」とある。
右左の説明は、どこの会社の辞書も、方位方角を基準に説明するのだが、新明解は違う。
「大部分の人が、はしや金づちやペンなどを持つ方(の手)」
とある。つまり左ききのひとは大部分にはいらないのである。
じゃ、大部分の人が、はしや金づちを使っているのを
正面から見たらどうなるのか、はしは左側に見えないだろうか。
では、ちなみに、新明解の『左』の説明は
「普通の人が茶わんを持ち、くぎ・のみを持つ手(の方)」とある。
じゃ、普通の人が茶わんをもっているのを
正面から見たら、その茶わんは右に見えないだろうか。
いま、わたしが見ている新明解は初版である。
新明解は、現在では五刷りまであって徐々に改変され、
山田先生の個性がしだい薄れてきていることを
付け足しておこう。
でも、右左の説明はまだ、変更がないはずだが。
さて、ではこちらはいかがなものか。
新明解初版の『ビキニ スタイル』、
「女性の着る水着の型の一つ。乳の部分と
下腹部とをそれぞれ申しわけ程度におおっただけで、
大胆に裸体を露出したもの」
いま、四刷りの新明解があるから、
同じ項目を見ると、『ビキニ』と見出し語がかわり、
「乳の部分と下腹部とをそれぞれ申しわけ程度におおっただけの、
セパレーツ型の女性の水着」となり、
山田先生亡きあとの弟子たちは、
ビキニに対してやや寛容な姿勢を見せてきたのである。
団地に住んでいる方もいようかとおもうが、
新明解の団地はこうだ。
「住む家の無い庶民のために、
一地域に集合的に建てられた・公営(民営)のアパート群など。」
とある。失礼じゃないか。
いいや、わたしは、団地ではない、
マンションに住んでいます、というひとのために、では、『マンション』。
「スラムの感じが比較的少ないように作った高級アパート。」である。
学校の先生は、子どもたちに意味調べを
宿題にさせたりするが、そのときに、
子どもたちは、新明解を使って、
そのままその語をノートに書いたりするのだろうか。
かりに子どもが「ジレンマ」を調べたとしよう。新明解の説明。
「大学紛争のときに学生の追及に
終始だんまりを決め、現職にとどまっていると
無能ぶりを発揮したことになる。
また、やめれば、自らの無能ぶりを認めたことになる。
(以上、大前提)自分はやめるか、
やめないかのいずれしかない。
(小前提)ゆえに自分は、
どちらにしても無能だ。(帰結)とするような物の考え方」
これを書くのかい。
おまけに、新明解はこのあとに、括弧付きで付記がある。
「(以上の考え方に従えば、
開き直ってやめない方が得だということになる)」
ありがとよ、人の人生まで教示してくれて。
職場の机の上がめちゃくちゃに汚れているひとがいて、
このような状態を「わいざつ(猥雑)」と言うが、
小学館は「みだりがましくごたごたしていること」とあり、
新明解は「本来そこにあるべきでないものが
入りまじっていて、思わずまゆをひそめさせる様子」とある。
ということは、新明解に従えば、
わたしは、理科のM先生を見るたび、
まゆをひそめていなくてはならなくなるのだ。