うちのむすめは、わたしに朝のあいさつなど
いちどもしたことがない。
もともと、日本の家族というものは
ことばによるコミュニケーションをとらなくても、
成立するものだというわたしには持論があるので、
さして、むすめの所動がたいへんな家庭問題であるとはおもっていないが。
あいさつ語は、我が国でも、
そこそこ発達してきた。これはあくまでそこそこで、
諸外国との比較文化論をするほどの
学識がわたしにはないので、わかる程度の範囲のはなしである。
「おはようございます」
一般的な朝の常套句である。
ちょっと文法的にやっかいなはなしをすれば、
「おはよう」は「お早く」の「く」が「う」と入れ替わったもので、
(専門的にはウ音便という)このウ音便は、関西言語では、
「早う来んかい」とか「よう、いわんわ」など、
日常の使用が認められるが、関東エリアでは絶滅している。
ただし、唯一、丁寧語「ございます」の上にだけ存在が
認められるいわゆる危惧種となっている。
「お高うございます」とか「よろしゅうございます」などの
使用が関東エリア最後のウ音便の姿である。
と、細かいはなしはやめて、じつは現代文法では、
品詞分解という、ほとんどひとが注射のつぎくらいに
いやな作業をまったくしなくてよく、
すでに「おはようございます」は一語と認定されているのだ。
つまり、あいさつ語として、感動詞の仲間にはいっている。
感動詞、独立した自立語で、修飾機能のない語をいう。
うぐいすがホーホケキョと鳴いた。
この「ホーホケキョ」は「鳴いた」を修飾しているから、
副詞である。
うぐいすが鳴いた、ホーホケキョ。
この「ホーホケキョ」はどこも修飾していないので、
感動詞である。といった具合に、品詞というものは、
おんなじ「ホーホケキョ」なのに、
その語のはたらき(機能)によって、
便宜的に分類されている。その分類によれば、
あいさつ語は、すべて感動詞となっている。
ということは、感動詞というものはひどく守備範囲がひろく、
あいさつ語と認定されれば、それは、
いかなる表現でも感動詞なのである。
こんにちは。さようなら。お元気ですか。
すべて感動詞である。
時候のあいさつをするひとを見かける。
「えぇ、えぇ、今日は寒くなりました。
きのうは、それでも暖かかったですがねぇ」
日本人はとくに、この時候のあいさつが多いらしいが、
だから現代の機能文法的にいえば、
「えぇ、えぇ、今日は寒くなりました。
きのうは、それでも暖かかったですがねぇ」も
一語の感動詞でよい。感動詞なのだから、
ターザンのアー・ア・アーとか、
かれの家来のチータの、ウキ、ウキィとおんなじなのだ。
時候のあいさつは、つまりは、
没個性の発現なのである。
それは、ぎゃくに考えれば、時候のあいさつを
述べているときというのは、自己主張しなくてよい、
心地よい他者との接触の時間なのである。
日本人は自己主張を美徳とは考えていないし、
得意でもないからだ。
農耕民族のDNAについては、
わたしが何度も触れている話題ではあるが、
この時候のあいさつにも、それが顕現されている。
農耕民は集団ではたらき集団で生活するわけで、
個人的主張の必要性がまったくないし、
むしろ苦手とした。ぬきんでた意見やイデオロギーは
天候次第の稲作文化にはなんの意味合いもなく、
必要だったのは、穏やかな天気と豊富な水源、
やさしい自然だけだったのだ。であるから、
ひとは、他者と接触するばあいに、
没個性の言語を積極的に、というよりDNAレベルの本能として、
もっとかんたんに言えば、無意識に使用するのだ。
「ずいぶん暖かくなりましたなぁ」
農耕民族特有の気質を、
あいさつ語という感動詞はかもしだしているのである。
だから、やはり農耕民の血をひいたむすめは、
わたしを横切ってゆくとき、あいさつはしないものの、
さっと風をのこしてゆくのである。