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普通

学校教育において、児童、生徒、学生の

価値基準の表現方法から「普通」という語彙を

排除してもらいたい。わたしは痛感する。

普通という概念は、よくもわるくもない、

平均的である、といった評価内容を有しているのだろうが、

いまの子どもたちの使う、「普通」はすでに「普通」ではなく、

「ふつう」でもない。おそらくは「フツー」なのであろう。

すでに「普通」の持つ概念も形骸化し、副詞化し、

ただの、あいの手のようになってしまったのではないか。

だから、「フツー」とは、その件に関してあなたとの

コミュニケートを拒否したい、あるいは、あまりわたしには

関わって欲しくない、もっと簡潔に言えば、

ほっておいて、と言う意思表示にほかならないのだろう。

むかつくね。

 

 わたし自身も語彙数が多い方だとはけっしておもわないが、

当世学生気質の語彙力の欠如は目を覆いたくなるではなく、

耳を覆いたくなるばかりだ。やつらは、

ほとんど三通りくらいの感情表現しかないんじゃないかとおもう。

つまり、はい、と、いいえ、と、どちらでもない、

の三つの札しか用意がないのだ。

 

 バイトから帰ってきた高校生のむすめと玄関であったので、

「おつかれさん、きょうはどうだった」

 と、穏やかに、あしながおじさんと同じくらい紳士的に、

ゼペット爺さんのように優しく、そうして、

父親然としてわたしが訊くと、むすめが言った。

「あ、忙しかったよ、けっこうお客さん来たし。疲れちゃったぁ」

「そーか、たいへんだったな。風呂湧いてるぞ。はやく入って休めよ」

「うん、そうする」

と、こうくれば、あしながおじさんも、

ゼペット爺さんも、みな、平和で、明るく、

楽しい家族生活が送れたのに、わたしが、

「おつかれさん、きょうはどうだった」

と訊くやいなや、むすめはこう答えたのだ。

「わかんない」

「・・・・・」

 このひとことで、わたしの頭はぐらりとし、

体内の血がいっきに脳に遡上した。

すでに、わたしの脳裏では、ジュディ・アボット嬢は

おじさんにずたずたに裏切られ、ピノキオは爺さんに

十三日の金曜日の斧で木っ端微塵に粉砕されていた。

いま、数分前まで、皿洗いとか接待とかしてきた人間に、

つい数分前のそのようすを訊いただけである。

それをこともあろうに「わからない」とはなにごと、

ここはどこ? わたしは誰? 記憶喪失でも精神分裂症でもないくせに。

わからないという答えほど取り返しのつかない

言い方はないだろう。だから、

ゼペット爺さんとあしながおじさんは、

はるか浄土のむこうまで吹っ飛んでゆき、

かわりに、牛頭馬頭が声を荒げてやって来たのだ。

「う、う、う。わからねぇじゃ、わかんねぇだろ。

混んだのか、ひまだったのか、訊いてんだ、はっきり言え」

と、むすめは、のれんに腕押し、

地獄の獄卒もそっちのけでこう答えた。

「フツー」

ほーら、来たぞ。わたしの脳にたまった血は、

もういちどぐるぐる体内を回り、

八百ミリリットルくらいは、

また、脳に鬱血し、脳からあふれそうな血潮は、

わたしの目や耳や鼻から、吹きこぼれそうになった。

その証拠に、鼻孔のおくに鉄臭いにおいがする。

「なにがどうフツーなんだ。

いったい何人くらいが来たんだ、

はっきり答えろ。このばかもの」

そうでなくても、声の大きいわたしは、

ついに近所の寝たきり老人を揺り起こすくらいの

拡声器でどなってしまった。閻魔大王の家来となったわたしは、

そのあとのようすをよく覚えていない。

目の前がくらくらしたからだ。泣いているジュディを足蹴りにし、

木屑となったピノキオを踏みつぶすくらいの

怒りはしばらくわたしのなかから消え去りはしなかった。

 

 日本語は、やさしい自然にはぐくまれた、

母性的言語であり、おだやかでおしとやかで、

そして美しい。なんでも「チョー」「チョー」

言っている金髪ルーズソックスや腰履き学らんの

えせサーファー野郎には、ガムを噛むあいまの

言語なのかもしれない。だれがそうさせてしまったのか。

 

 ある男子生徒にこんな質問をしたことがあった。

「おまえ、きのうの昼、なに食べたんだ?」

「おかず」

「え、おかずじゃわかんないだろ。どういうおかずを食べたんだよ」

と、その無表情はこう言った。

「フツーのおかず」