Menu

お得なアプリでクーポンGet!

店舗案内

味の素考

 ※この原稿はわたしがまだ店をはじめる前に

書き溜めておいたものであって、いまの気持ちとは

齟齬があるかもしれません、あしからず。

 

 

 世に、ラーメン好きという輩がわんさかいる。

自称ラーメンフリークとか、研究家とか言っている。

味覚などひとそれぞれで、

だれしもが鋭敏な感覚をもつ必要などないのだが、

ラーメン好きに関してはとにかくどうも疑わしい。

まず、ラーメンが来た瞬間、テーブルの胡椒をふりかけるひと、

これは信用できない。ラーメンと胡椒の相性は通常はいいのだが、

ひょっとするとまったくあわないのもある。

とくに魚だしで勝負するところはあわないものが多いかもしれない。

みそ汁に胡椒をいれるだろうか。

 

店の主人もホントは胡椒など置きたくないのだが、

ラーメン屋に胡椒がないのは、

はだかで街を歩くくらい非常識に感じてしまうので、

しぶしぶ置いている、というばあいもある。

味覚に敏感なひとは、まず、そのスープのかおりを感じて、

はたしてなにが合うのか、直感的にわかるものなのだ。

ま、だいたいはなんにも入れずに食べるのが正しいとわたしはおもうが。

 

つぎに信用ができないひとは、さいしょにはいった店で、

麺固めと注文するひと。この行為は店にすこぶる失礼だ。

その店が、どんな麺をあげてくるのかわからないうちから、

固いだの、やわらかいだの、客がとやかくいうことではない

。肉の焼き加減とは根本的にちがうのだ。あれは、家系の店が、

麺のかたさやつゆの濃さ、あぶらの量などをお客の好みに

あわせて作っているという歴史が、

客をいいきにさせてしまったのである。

美味には一通りしか答えがないのだ。

その一通りを店がだしてくれるのを、

お客が受ける、という構図が、

元来の料理店のありかたなのである。

新幹線に乗り込んだ乗客のように、

お客はゆったりとシートにすわり、

目的地に運んでもらえばいい。新幹線に乗り込んだとき、

車掌に「すみません、乗り心地、堅めで」と、頼むか。

 

 ともかく、さいきんは、麺固めと注文するひとが

多くなったが、じつは、固めと茹で方の足りないのとは、

根本的にちがうわけだが、いまは茹で方の足りないものを

固めと呼んでいる。まだ、芯が煮えきっていないのに、

その生の小麦粉を食べて、うまい、うまいと喜んでいる。滑稽だ。

 

 麺固めという状態は、麺が煮えているのに固い、

パスタでいえば、アルデンテを指す。

これは、煮方さんにとってはひどくむつかしい

ワザを要するのである。ほんものフリークは、

もし、固めやわらかめの注文をしなくてはならないとしたら、

間違いなくやわらかめを頼むものだ。

まず、麺好きは、箸さばきが見事だから、

食べ方もおのず早く麺がのびることも少ない。

たっぷり湯をすった麺はもちもち感がでて、

麺じたいの元来もつ力も味わえて楽しいものだ。

やわらかめを注文することによって、

はじめて出会える麺ほんらいの味があるのである。

野球拳でさいごにブラジャーをはずした

女優を見るような満足感が、そこには存在する。

しかし、固めで注文するひとには永遠その楽しみがわからない。

 

 ラーメン屋さんは、お客に満足してもらうためになにに

注意するかと言えば、こく、である。

こく、あるいは、深みをどうやってかもしだすかといえば、

まず、醤油だれに大量の塩をいれること。

塩は深みをだすことにすこぶる有益で、

味覚の表面上には浮かんでこずに、

スープに力強さをだす。お寿司屋さんのシャリに

大量の塩がまぜられていることに気づくひとは

すくないだろう。あの塩によって、

淡泊な刺身でも、あじに深みをつけているのが、

寿司のひとつの裏ワザなのだ。寿司屋に行った後、

ひどくのどがかわくのは、大量の塩のせいなのである。

ラーメン屋に行っても、そのあとのどがかわくのも、

塩の陰謀にまんまとひっかかった証拠である。

 

そして次に、化学調味料、これに頼っている。

味の素がその主流だ。人間の舌は、

味覚の感じる場所がおおむね四箇所あって、

甘み、苦み、辛み、酸味など、

それぞれ別々にわかれている。

が、この味の素というのは、ひとつまみ舌のうえに

乗せれば了解することだが、

乗せた瞬間、いっきにその四箇所の部分に刺激がくるのだ。

鰹で感じる部位、煮干しで感じる部位、

昆布で感じる部位、それぞれ舌はちがった反応をそれもしずかに、

自然に、ひどく脆弱に見せるのだが、

味の素は、いっぺんにこの味が押し寄せてくる。

イタリア女のビンタのように荒っぽくめちゃくちゃだ。

この媚薬をいれることによって、人間の舌は、

その感じる部分、すべてに刺激を感じ、

単純にかつ乱暴に満足を得られるという仕組みになっている。

が、この刺激は、いちどに押し寄せてくる反面、

じつに平板な刺激である。モナリザの絵と

映画館の看板の絵との差くらいある。

化学調味料で喜んでいるひとは、

映画館にたてかけられたペンキ絵をみて、

絵画鑑賞したと錯覚しているのとほとんどおんなじだ。

そして、化学調味料のもうひとつの欠点は、

なにか、それは、舌先にぴりぴり感が残ることも、

舌全体が潰れたような感が残ることも、

ほかの味が消されることも、すべてそうなのだが、

それ以上に、この味が半日くらい消えない、という事情である。

味というものは、舌からさっと消えるところに文字通り味があるのだ。

口中に消えてゆく味が、心のなかに残る。

これこそが、食文化の醍醐味であったのに、

味の素は、そんな楽しみを徹底的にわれわれから奪ってしまったのだった。

 で、わたしは提案する。舌の感覚を鍛えよう。

その第一歩、まずは、味の素をひとつまみ、

舌の上に乗せてみる。と、その強引な独裁者の

ひとりよがりがはっきりわかってくる。

この味は当分、舌の上を独り占めするはずだから、

脳にインプットしやすいはずだ。そして、

この屈辱をけっしてわすれず、

たくさんの食品、料理を食べてみよう。

かならず、舌先にさいごに残っている、じわーっとした感覚があるはずだ。

それが、ナチス味の素である。

この訓練をたびたびおこなえば、

もう諸君は、ラーメンフリークならぬ、

味の素フリークになり、「これ、ちょっと化学調味料がきついですな」

なんて店の主人の前で言えるようになるのである。

と、店主も、う、と絶句して、

あなたに一目おくようになるのだ。

そして、またべつの日に来店すると、店主はおもう。

 

てごわいやつが来たぞ。