世の中からアナログ系のシロモノが
姿を消して久しい。
あのレコードという音楽装置が消滅した
いきおいには目を見張るものがある。
一世を風靡したナガオカというレコード針の会社は、
仄聞するところ、いまじゃ数人の社員が
プレハブで営業しているとか。
ちょうどわれわれは、
レコードからCDの移行の経緯を実地で経験しているから、
灯台もと暗し、よけいにわかりづらくなっているのかも知れないが、
CDへの推移は、
波で砂浜が洗われるくらいあっというまに
スムースにごく自然におこなわれたのではないか。
とすると、世の中アナログが消滅しデジタルが凌駕したわけだから、
ひょっとすると人体にもひどく影響しているかも
知れないのである。
ま、電磁波を体中にあびていても平然、
泰然としているひとたちがいっぱいいるのだから、
こちらのほうはもっと無防備になるのかもしれないが。
さて、アナログとちがってデジタルの功罪は
いくらもあげられるだろうが、
わたしが懸念するのは、
つまり罪のほうだが、信号が0と1しかない、
二進法で世の中が進んでいる、
という事情だ。世の価値判断が、
0か1かの二者択一なのだ。風光明媚な自然の景色も、
複雑な哲学的思考も、すべてカメラやコンピュータを
介在したしゅんかん、この情報は0と1とに変換される。
それが高度資本主義の現状なのかもしれないけれど。
あげく、知らないうちに情報なんていう
教科も増えてしまった。
これも高度資本主義の産物なのかもしれないけれど。
ここで、考えておかなくてはならならいのは、
われわれは、ほんとに二進法の世界に
どっぷりつかっていていいのだろうかという根本である。
床屋のマークでさえ三色なのに。
二進法というのは、世の中のありとあらゆるものすべてを
一色にする企画なのだ。ことごとく平板にする計画なのだ。
「まじぃ。ちょーうけるんだけど」
なんだい、この日本語。
いまの若者言語の特徴は没個性である。
「ほんとうかしら、あら、おもしろいわね。いいんですか。うれしいわ」
こんな言い方は激動の昭和で終息している。
「まじっすか。いいんすかっ。すんません」
おんなじ言語とはおもわれない。
こういった、乱れた没個性は、
個性を埋没されることで、
安堵感がうまれているという事情であることは、
おそらく言語学的に正しい説明とおもうけれど、
ひとつの言語のデジタル化にほかならない。
言い方がだれしもいっしょ、一色になっているのである。
「三百五十円ですね」
コンビニで買い物をしたら、こう言われた。
なんだい、この「ですね」っていう言い方は。
「三百五十円です」のほうがまだましだ。
終助詞の「ね」は念を押す、
くだけた物言いだとおもうが、店員が客にいう言葉ではない。
「はい、こちらがスーラータンメンですねぇ」
語尾を上げながら「ですねぇ」ときた。むかつく。失礼じゃないか。
「おまちどおさまです。スーラータンメンでございます」と言えよ。
あの揚州商人という新興宗教のような名前の
ラーメン屋のハイテンションさは、
なんだい。とにかく、無駄に店員がはしゃいでいて、
「ご注文、いただきましたぁ」
甲高い声で女給が板場にさけぶ。
「ありがとうございまぁす」
板場の数名がいっせいにへんじをする。
「塩ラーメン」
「はぁい」
「かにチャーハン」
「はぁい」
えっさ、ほいさ、間髪をいれない
合いの手のような景気のいい返答の仕方。
やつらのテンションの高さとはうらはら、
客はボトムにいるのに。
人為的な景気よさもけっきょくひとが
平板になっていることへの裏返しの現実なのである。
二進法の社会がひきおこしている現象は、
没個性の単一平板な表現形態として
具現されている。
言語においてはすでに、
モールス信号化がすすんでいるのではなかいか、
とさえおもわれる。
とくに揚州商人のうるささは
戦闘中のモールス信号である。