誰に言われたのか、すっかり忘れてしまったが、
ホームレスってさいしょに家を作るでしょ、
おかしいわよね、とそのひとは言っていた。
たぶん言い方からすると、
同年輩の女性だったとおもうが、
それがわからない。
だいたいわたしより理屈っぽいひとは
そんなにいないはずなのだが。
しかし、わたしはその言葉を聞いていて、
うーん、そのとおり、人間の営みのちょっとした
はかなさのようなものまで感じてしまって、
その女性の慧眼にすっかり感心したものだった。
だが、ふときょうテレビで親子のホームレスの
番組を放映していたのを見ていたところ、
ま、親といっても六七歳、子供は四一歳、
そんな歳でホームレスもいかがなものか、
とはおもいはしたものの、路上暮らしになる
いきさつを語り始めたとき、
わたしははっと気づいてしまったのだ。
この六七歳の方は、ご主人が酒乱で、
かつヤキモチ焼きでどうしようもなかったから
家を出たという。つまりホームレスは家庭生活の
エスケープの場であったのだ。
アルミ缶を集めまわって日々の小遣いにし、
年金もちゃんともらっている。
つまり、資本主義の根本である通貨制度には
順応しているということなのだ。
ここが、いわゆる物乞い、
乞食とは一線を画するところなのである。
資本主義社会の一員としてまだ参加しているなか
(税金はどうしているんだろう、それはそれとして)
この親子の失ったものは、たんに家庭であったのだ。
つまり、家庭を失うからホームレスというのであって、
家を失ったわけではないのである。
もっと正確に言えば、家を失ったという意識はない。
家を失ったのなら、それはハウスレスだ。
ホームレスってさいしょに家を建てるでしょ、
というホームレスの矛盾にするどい指摘をしたその女性は、
じつは、このホームレスとハウスレスとの相違に
気がついていなかったのであった。
ホームレスというのは、
すべてがそうではないにしても、
ひどくメンタルな部分があり、
彼ら、彼女らにも思想や積極的な
幸福論をもっていたのである。
ただ、幸福論を共有すべき相手と共存ができないと
判断したときのひとつの方法論であったのだ。
あなたがいると、ただいるだけで
五人も六人もいるようにおもえてくるの、
わたしは、ずっと前から言っているけど、
ひとりになる時間が欲しいのよ、
まだ、この部屋にいるの?どこかに行けば。
なんて、毎日のように言われ続け、
どんなばかでも了解するのだが、
これは、やわらかく示唆した、
出て行けという妻の命令にほかならない。
入室禁止っていうやつだ。彼女の説得力のひとつが、
ずっと前から言っているけど、これなのだが、
どうも、再三言いつづけるという行為が
真理になるとおもいこんでいるらしい。
この会話には出てこないが、
誰に聞いてもいいから、というのがもうひとつの
後ろ盾になっている。この誰が、
原田さんと鈴木さんのふたりなのも周知のことだが、
このふたりがわが家の進み方を教示してくれているのだ。
おそるべし、原田に鈴木。
で、しぶしぶわたしは妻の言いなりになって、
外に出てゆくのである。さいきんは、
それでもわたしには学習能力があるから、
いわれるさきにさっさと出てゆくことが
日常になってしまった。
だから、わたしには、仕事がおわって家に帰るや、
すぐにどこかに身を隠すような生活がはじまっているのである。
待てよ、これって、ホームレスじゃないか。