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結婚式に行く

「おれの白いネクタイ知らない?」

「知らない」

 知らないという問いかけだから、

知らなければ「知らない」と答えるのはしごく

当然なのだが、知らないと言下に言われるとまるで、

わたしには関係ないわという主婦放棄のように聞こえるのだ。

だから、わたしもカチンとくる。

そもそも、亭主の身支度が主婦の仕事に入っていないと

妻が理解していれば、わたしたちの会話は成立しないのである。

「知らないって、おまえが家の中を管理しているんだから、

しっかりしてくれよ」

 管理という言葉は妻の日常にとっては

無縁の領域なのだろう、こういう言い方をすれば、

開戦ドン、となるのは周知のこと、

こちらも売り言葉に買い言葉、

ついつい妻の逆鱗をつついてみたくなるのである。

「管理、管理って。わたしがぜんぶ面倒みなきゃいけなの」

 なんと腹の立つ言い方。

だいたい妻からの受け答えがすでに

わかっているだけによけいに

腹が立ってくるというのは、

わたし自身に余裕がないか、

夫婦のコミュニケーションに欠陥があるのか、

そのいずれかである。

ま、きょうは結婚式当日で時間的にも余裕がなかったので、

「じゃ、もういい、どこかで買ってゆくから」

と玄関の姿見をみながら襟を正していたところ、

ふと、礼服のポケットをさぐったら、

なんかハンカチにしてはちがう肌触りがする。

なんだろうとおもい、

引っ張ってみると、のびるのびる、

白いネクタイがするすると

手品みたいに出てきたではないか。

前回の結婚式以来、

わたしのネクタイはこのポケットに

収納されていたのであった。まずい。

 すぐにネクタイのあったことを

言わなくてはならないし、

その次の妻の言葉は「ほらそうでしょ」である。

わかっているのだ。

「おーい、ネクタイあったよ」

「ほら、そうでしょ」

 このあと、妻はたぶんわたしに対する

不平混じりの文句、つまりこの数分で

受けた精神的損害を代償できるくらいの

罵詈雑言をわたしに言っていたはずだが、

もうこのへんから、すみません、すみません、

とわたしが連発していたから、

すっかり忘れてしまった。

やっぱり、こういう日常を繰り返していると

ますますわたしは亭主関白の座からひきずりおろされ、

給料の宅急便屋になりさがってしまうのだ。

月にいっぺんだものな、妻が「すみません」とか「

ありがとうございます」とか言うの。

 だいたい、冠婚葬祭の際、わたしの家では波乱がある。

これはどこの家庭でもそうかもしれないが、

冠婚葬祭という非日常にわたしたちが

慣れていないから決まった行動がとれずに

まごつくのだろう。洗面所にじぶんの

歯ブラシがなくなっていたときのような感じだ。

 リーガルの靴でウィングチップというのがある。

革靴はつま先の模様で、ストレートチップとか、

Uチップとかで区別されている。

正式にはストレートチップの五つ穴、

というのが冠婚葬祭にはよいらしい。

ついでに、時計は皮バンドで、かつ、銀色のもの、

だからステンレス製かホワイトゴールド、

フェイスは白、文字盤にはできるだけ模様のないもの、

これがよい。ロレックスのコンビとかカルティエで

でかけるのは馬鹿である。おすすめは、

バセロンコンスタンティンのホワイトゴールドのシンプルな奴や、

ニューヨークの五番街で売っている奴、

これは名前を忘れた。

まずい、呆けてきた。

ま、どちらも車が買えるくらいの

シロモノだからとうてい買えない。

理想論を言ってもきりないのだが、

わたしは、まだそのころはストレートチップを

持っていなかったので、

ウィングチップを履いて結婚式に行こうとおもっていたのだ。

ウィングチップとはつま先に鳥の羽のような

模様がついていて、ぷつぷつの穴が飾りで施されている。

二十センチくらいの靴ひもは細い黒で、

五つ穴に通す。しかし、わたしのウィングチップは

その靴ひもが切れていて、使い物にならないのだ。

で、妻に頼んで靴ひもを買っておいてもらったのである。

「おい、靴ひもどうした」

 わたしは、ちょっと不安だった。

「え、知らない」と言われるのではないか。

きょうこの切り札が出されるとわたしは

結婚式に靴ひもなしで出かけなくてはならないし、

その前に

この玄関で妻とまた二進も三進もゆかない

パラレルな激論バトルをしなくてはならなくなるのだ。

台所のほうから下駄箱のほうに妻が寄ってきて言った。

「あ、買ってあるわよ」

 ほっとした。わたしの要望がすんなりと

受け入れられた瞬間であった。

が、この和やかな夫婦のおだやかな時間は

じつはとんでもない事件となったのだ。

妻が下駄箱から出してきたのは、

ロングバスケットシューズの紺色の太いひもだったのだ。

「なんだい、これは」

「だいじょうぶよ、これで」

 妻はわたしのウィングチップの切れた靴ひもを抜いて、

この六〇センチはあろうかという

バスケットシューズの靴ひもを通し始めている。

「だめだよ、おまえ」

「平気よ。ほら」

 靴ひもを通されたわたしのウィングチップは、

甲のところで、ものすごくおおきなリボン結びができているのだ。

さすがの妻もこれは不可思議なものができあがったとお

もったのだろう、けらけら笑っている。

「ばかやろう、おれはこれから

結婚式に行くんだぞ、こんなんで街が歩けるかよ」

そう言ったら、妻は、

じぶんでやったくせにまだ笑い続けてこう言った。

「だいじょうぶよ」

 なにが、だれに、どう大丈夫なのか、

とことんむかついたが、しかたないからその靴ひもをはずし、

わたしは、玄関に座って切れた細い靴ひもを結んで、

敗戦兵士の帰国のようにホテルにでかけたのである。

 これは主婦放棄とか、

管理とかの次元ではない。

常識っていうやつだ。